Dark night of the soul Secret path to the Light

目を覚まして、未来をあきらめないこと
2016-04-04 Mon 16:25

一人の母親がブログに吐き出した、不器用ゆえにあからさまな本音が、
驚くほどの勢いをもって全国に広がり、国民の心を揺さぶり、
またたく間に共有されていった現象も、珍しいだろう。

「保育園落ちた日本死ね」

かなり脱力している。いや、困惑している。違和感がある。
私には、ある部分が、どうしても引っかかるのだ。
「主張は理解できるが、言葉がひどすぎる」からではない。
ぶちまけられた主張そのものに、ある種の危うさを感じる。

「子どもがいない者に何がわかる」
そう言われてしまえば、それまでなのだが、
それでも敢えて、この問題に口を挟むことにする。

その前に、いまわたしたちが生きている国は、
アベノミクスによって、こんな状態にあることを知っておこう。

CfKUztgVIAUWq3X_convert_20160404160258.jpg

出典http://www.nippon.com/ja/features/h00072/


2万人?潜在的にはそれどころではない、待機児童の問題は、
なにより子どもと家族の幸福を左右する、最重要課題である。
行政が動いて、保育園を増設し、保育士の質を高め、
その待遇を改善すべきことは、言うまでもないだろう。

だがそれは、「少子化」を解消するためではなく、
なによりも、生まれてくる子どもたちの、幸福のためであり、
親たちの希望の実現に、寄与するものでなければならない。

「子どもは家で母親が育てろ」という考えは、すでに通用しない。
なぜなら結婚や出産によって、女性の働く権利や人生の選択肢が、
さも当たり前に払う犠牲として、絶たれてはならないからだ。
一方、どうしても子どもを、四六時中自分のそばで育て、
見守りたい母親がいれば、それも充分に可能でなければならない。
どちらも「わかまま」ではない。女どうしが争う必要は全くない。

国民の多様な生き方に対応できなくなった、制度の不備と行政の怠慢、
いまなお残る偏見を糺さずに、問題を個人に背負わせようとする、
理不尽の極みに耐えきれなくなった、ひとりの母親の思いの爆発が、
どんなに乱暴な言葉であれ、多くの人々の共感を呼ぶのは当然であろう。

「日本しね」という叫びは、冗談ではない。まさにいま、
様々な形で国策の犠牲にされ、追い詰められた国民の怒りだ。
どれだけ多くの人々が、冷たい行政に涙を流してきたことか。
その意味でもここまでは、私も大いに共鳴し、賛成できる。

だが、どうだろうか。
沸騰した議論は、とかく「保育園作れ」の方向に流れがちだが、
本当に、それだけで済ませていいような問題だろうか。
さらに視野を広げ、さらに穿って論じる必要もあるのではないか。

もう一度、あの堪え難い、悲痛な「抗議文」を見てゆこう。
冷静に読んでみると、奇妙なことに気づかされる。
言葉そのものは、最大級の罵倒と辛辣な皮肉なのだが、
ではブログ筆者は結局、それをもって何が言いたかったのか?
ただ単純に、「保育園作れ」と訴えているのではない。

彼女は「日本」に殴られ、「日本」に絶望し、「日本」を責める。
だが意外にも、これほど政治の無為無策無責任を罵りながら、
同時になぜか殊勝にも、当然のように協力しようともしている。
むろん本人自身に、そんな気持は微塵もないだろうが、
悲痛なまでの怒りは、裏を返せば、素朴な信頼あればこそである。

つまり、安倍政治の欺瞞に過ぎない、「一億総活躍社会」を信じて、
自分も文字通り、国民の一人として活躍しようとしていた矢先に、
保育園の件で窮地に追い込まれ、ものすごい怒りを表明した。

彼女が悪罵をもって、しかし理路整然と訴えていることは、
安倍政治の薄っぺらな言葉と現実の有様の、大いなる矛盾である。
「おまえを信じていたのに、このザマだ。どうしてくれる!」と、
国民の信頼への裏切りと、被った酷い扱いを、なじっているのである。
少なくとも、そういう体裁をとる文脈で、論理は展開されている。

その想いあればこそ、まるで夫婦のように無遠慮に、切々と、
相手を責めなじり、あれこれと要求を並べても、不自然ではない。
投げやりな文章に見えるが、理にも情にもしっかり訴えかけている。
その言い分は、どれもこれも現実的で、よく理解できるがゆえに、
ますます、わが身につまされる想いをされた方も、多いことと思う。

どのように考えればいいのだろうか。
ひとりの母親が被った不当な仕打ちには、許しがたい思いだし、
仕事と育児の両立への無理解にも、同じだけの憤りを持っている。
だがそれと同時に、政治のウソを真に受けて、欺瞞が見抜けず、
安倍の屁理屈に、軽く乗せられている様子には、懸念を覚える。

それは、「保育園落ちた」に共鳴して、声を挙げている人たちにも
おなじように見られる、ある種の「読みの甘さ」であるとも言える。
少子化対策と保育園の増設は、本来まったく別の問題なのである。


核心に入ってゆこう。少子化を問うことは、
どんな未来を築いてゆくかを、考えることでもある。

だが「産む」者と、無礼にも「産ませようとする」者との間には、
その根底にある人間観に、水と油のような本質的相違がある。

少子化問題では、男性と女性、年長者と若者の間に存在してきた、
従来の力関係と、その圧力に対する女性や若者たちの激しい抗議、
身体を張った抵抗が、避けられない闘争として繰り広げられる。

人間とはなにか? 人間とは、ひとつのいのちであり、
そのいのちが個性と人格を持ち、自らを創造するのが人生である。
ひとつの命が存在し、躍動し、生活するのは、肉体が必要であり、
さらに新しい命を生むために、性の交わりがおこなわれる。
人間にとって身体と性、個性と人格は、だれにも所有されてはならず、
いかなる場合にも侵害されてはならない、いのちの本質なのだ。
それが個人の尊厳であり、民主主義社会の基礎でもある。

ところが少子化の議論になると、たちまちこの人間観は粉砕される。
いのちが数値として扱われ、個人はモノとして有用価値で判断され、
人間のはただの増産器、性は、男女の愛やいたわりの表現ではなく、
生殖部品の凹凸の組み合わせ、先祖と子孫を繋ぐ輪に過ぎなくなる。

「産め」だの「産ませる」という発想自体、下品で不潔などころか、
そのまま女性器の所有と侵犯を暗示する、暴力言語でもある。
私にはこれら異常な感覚が、どうにも堪えがたく、許しがたいのだ。
(「産め」を「産んでください」と丁寧に言い直しても同じ)

少子化の議論には、生命の始まりへの畏怖、母親への敬意、
家族と子どもの神聖さに対する理解が、根本から欠けている。

だから子どもの数を殖やすには、最低2人の出産を義務づけよ、
結婚を義務化し独身税を設けよ、子どものいない人間には年金や
社会保障を施すな、若い女性を集めてレイプすればすぐに解決!
などなどの、実行したくてもできない願望が、かならず飛び出す。
ひとのいのちが、まるでウジの発生か、ゴミ処理程度の扱いなのだ。

たとえば、政治や経済の思考の根底には、
「人口こそ国力である」という、奇妙な信仰がある。

子どもの数が減れば、労働力も消費者も減り、経済規模が縮小し、
税収も減り、社会が維持できず、国力が衰退し、日本が滅びるそうで、
いまではなんと、原発や戦争などよりも、少子化こそが
日本の未来が危うくする、最大の脅威であると喧伝するのだが、
安心して産める場所も、最低二人の子供を育てるお金も、
子どもを預ける場所も、出産と子育てに理解ある職場の整備も、
現実には充分ではないという切実な問題には、驚くほど無関心だ。

当然だろう。人間を人格ではなく、人口や人財とみなしているならば。
必要な部品を発注するように、「産む機械」に子どもを製造させる。
「産む」ことと「育てる」ことが、不可分であることさえ理解できず、
国の将来を担う、より丈夫で健康で優秀な、子どもたちを歓迎する。
子どもたちは、生まれてすぐ競争社会に投じられ、選別と淘汰を受ける。

「産んで殖やして育てて皇楯」(中央標語研究会 昭和17年)。

戦中の標語らしいが、いまでもこの精神は、連綿と受け継がれていて、
ただ「皇楯」が「国力」に、つまり戦争が経済に置き換わっただけだ。
わが子が戦場に送られず、カネモウケに勤しむなら問題はないのか。

待機児童の問題のほかにも、
介護施設に入所できない高齢者の問題も、深刻である。
共通するのは、乳幼児やお年寄りなど、カネを産まぬ役立たずは、
女に丸投げして、無償で世話させればいいという、差別思考である。
人生の始まりと終わりが、いかに疎かにされているかということだ。

男女の愛、性の尊厳、身体の不可侵性、家族の幸福、
子どもたちの未来、お年寄りの安らぎ、福祉と呼ばれる
カネにもならぬ雑事など、どうでもいいという意味なのだろう。
(これらの領域はビジネスに利用されるや、大量のマガイモノを産む)

一方、「人口は国力」という発想自体が、非人間的な妄念であり、
普遍の価値とは相容れないことを、肌身に感じている人たちもいる。
どこのだれが、労働力や年金を増やすために、子どもを産むのか!
こんな、人間の基本中の基本が、どうすれば理解できなくなるのか?

民主主義は、個人の尊厳を基本とした、幸福追求の権利を保障する。
ある男女が家庭を持ち、子どもを産み育てたいと望んでいるのに、
それらを躊躇させ、断念させる原因が、社会の機能不全にあるならば、
可能な限り状況を改善し、彼らの希望に道を開くのが、政治の役割だ。
国力の維持よりも、国民の幸福のために、権限を行使すべきであって、
それは「少子化対策」などの、即物的な名称で呼ばれるべきではない。

豊かさや幸福を、経済成長が保証すると考える人は、少なくなっている。
日本より人口が少なく、経済も小規模な国の人々は、では不幸だろうか。
世界中にある、決してそうではない実例を、私達はいくつも学んでいる。
それに比べて、電光は輝きモノは溢れるのに、家なき人々がさまよい、
母親と子ども達が飢え、若者が借金に縛られ、貧困から抜け出せず、
日々を生活の苦闘と、精神の飢餓に苛まれる日本とはなにか?

家族のかたちも、現代ではますます多様化している。
子どもを産むには、まず結婚する必要があるというネックは、
解消されるべきだし、性的少数者(LGBT)の存在が、
最初から無視されているのも、大変な差別問題である。
親子4人の核家族、子どものない夫婦、養子を育てる同性カップル、
お一人様、サザエさんのように妻方に三世代同居する家族、
親類まで一緒に暮らす大家族、国際結婚、血のつながらない家族、
どれも家族の豊かな可能性であり、さまざまな幸福の形として、
「みんなちがって、みんないい」とは、なぜ思えないのだろうか?

それを秩序を乱す、伝統を壊すと、根も葉もない理屈で、
夫婦別姓さえ認めず、破綻が目に見えている、復古的な家族像を
あろうことか「改憲」によって強要するとは、どういう了見なのか?
9条だけでなく24条の破壊も、著しい社会の荒廃をまねくだろう。

「何なんだよ日本」「ふざけんな日本」「まじいい加減にしろ日本」

CWgz_NBUEAABv9m.jpg


ここで最初に戻るが、
「保育園作れ」というのは、主権者の正当な要求である。
嘆願哀訴して、巧妙に利用され、権力に取り込まれるべきではない。
成果を得るために、出産を取り引き材料にするのは、倫理の敗北だ。
「こちらの条件さえ満たせば、産んでやる」と凄むのは、諸刃の剣だ。
「金があれば子供産むって」「国が産ませないでどうするんだ」
「保育園落ちた」ブログに感じる危うさとは、まさにこの読みの甘さだ。

ブログ文に共鳴し声を挙げる人々も、同じ論理の罠に陥っている。
「少子化を解消したいなら、保育園を増やせ」では、本末転倒である。
逆手に取るにしても、「産め」という論理に、自ら譲歩すべきではない。
「保育園作りました。約束通り産みなさい」と、言わせるようなものだ。
こんな取り引きをしてはならない。少子化と保育園は全く別問題だ。
「少子化解消」という、この国の「大義」を、まず根本から疑うべきだ。

政府は、家畜にホルモン注射程度の、緊急対策しか能がないのか。
この国の、現代版「産めよ増やせよ」が、いかなる状況と思惑に下で、
国民に強いられているかを批判できなければ、問題は見えてこない。
「少子化対策」なるものが、日本の将来も、国民の幸福も眼中になく、
ごく一部の、エゴを目的としてのものならば、失敗するのも当然だ。

いま世界は、一部の富裕層と大多数の貧困層によって、
経済が維持され、さらに底辺になると、どんなに働いても、
一生報われない、隷属状態に縛られることになる。
すなわちいま、この国を支えるのに必要とされるのは、
一部の利益のため、生かさぬよう殺さぬよう管理され、
搾れる限りとことん搾り取られながら、生涯負け組であり、
年金も大損するだけの、多数の労働者や納税者なのだ。
さらに落ちこぼれた者たちは、戦争や「原発掃除」に送られるだろう。

「社会を維持するために」といえば聞こえはいいが、
その内実は、この私物化された「日本」の差別構造を、
これからも存続させるという意思であり、「日本が滅びる」とは、
富裕層が得をする格差社会が、崩壊するという意味だ。
だからこそ政治経済界は、国民に「生殖動員」をかける。
安倍政治の「一億総活躍社会」とは、そうした全体を意味するが、
生まれてくる子どもたちは、国や企業の道具ではないのだ。

「何なんだよ日本」「ふざけんな日本」「まじいい加減にしろ日本」


欺瞞から目を覚まそう。未来に責任を持とう。
政治の言葉には疑いをもち、いつも自分の頭で考えよう。
身も心も、性も、人生も、誰にも貸さず渡さず、自分自身を尊ぼう。
子供たちを、戦争だけではなく、国家からも企業からも守ろう。
独立自尊した、助け合う個人以外には、民主主義の社会は築けない。

私自身は、産みたい人が産めない状況にあることを除いては、
「少子化」そのものを、ネガティブな、悪いことだとは思っていない。
人口減よって小国にはなっても、日本が消滅することもない。
戦争や疫病ではなく、人口の自然減少は、危機であるよりも、
この国のしくみを、根本から変えることのできる、チャンスではないか。

身を削ぐような生まれ変わりの、意識転換が必要でもあれば、
かたむいてゆく過渡期には、それ相応な犠牲も払うだろう。
従来の権益にしがみつく人々は、死ぬ物狂いで邪魔をするだろうし、
没落の不安におびえながら、若者たちに責任をなすりつけるだろう。

いま大切なのは、少子化の未来は暗いと、決めつけることではない。
少ない人口で充分に維持発展できる、希望ある未来を諦めないことだ。

その実現は、子どもたちの智恵とアイデアに、ゆだねられると思う。
世界から信頼される、ユニークで平和な小国に、誇りを持ちたい。
子どもたちが無条件に歓迎され、お年寄りの長寿が祝福される、
互いの顔が見える、おだやかな地域社会を作ってゆきたい。

戦後日本のあり方が、大きく変わろうとしているいま、
その功罪を見つめながら、わたしたち日本人は、
もういちど戦争国家に向かうか、平和国家を諦めないかが、
70年間の繁栄と没落の結論が、あらゆる面で問われている。


星の卵を身籠り、星の子どもたちを産む、母なる宇宙。
万物の、尽きないいのちの営み。わたしたちも星のかけら。
縮小NGC6357_hubble_960_convert_20160331112330
NGC 6357: Cathedral to Massive Stars
Image Credit: NASA, ESA and Jesús Maíz Apellániz (IAA, Spain); Acknowledgement: Davide De Martin (ESA/Hubble)
<日本語では『彼岸花星雲』と呼ばれる、さそり座にある散光星雲>

スポンサーサイト

別窓 | impressions
| 星の海の守 |