Dark night of the soul Secret path to the Light

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む②
2015-05-30 Sat 18:09

“ほんとうのさいわい”とは、なんでしょうか?

(燈台守)
なにが幸せかわからないです。
ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを
進む中でのできごとなら、峠の上り下りも、
みんなほんとうの幸福に近づく、一あしずつですから。


(青年)
ああそうです。ただいちばんのさいわいにいたるために、
いろいろのかなしみも、みんなおぼしめしです。


「銀河鉄道」は、それに答えてくれません。
求めつづければ、いつかかならず、得ることができるのだとも、
どこかに幸せの国があって、いつか、みんな一緒にいつまでも、
尽きない喜びを、分かち合えるのだとも、言ってはくれません。

ジョバンニは、親友のカムパネルラとともに、銀河鉄道で、
いつまでもどこまでも、楽しい旅を続けたかったのに、
その大きな希望を、胸一杯抱いた瞬間、カムパネルラは消え去り、
ジョバンニは、友の死という深刻な事実に、直面させられます。

宮沢賢治が、『銀河鉄道の夜』に描いた世界は、
「本来書き得ないこと」「人が書いてはならないこと」としての、
死後の世界です。そのため、子どもの読む童話にしては、
難しすぎるかもしれませんが、あえて、死の影の照射によってのみ、
通常の、人それぞれの「幸せ」と、「ほんとうのさいわい」との、
明と暗が、突然くっきりと、浮かび上がってくるのです。

「死人に口なし」というように、死者ほど蔑ろにされ、
都合よく利用され、手前勝手に扱われる存在もないでしょう。
むごい扱いで死なせた性奴隷は、人として葬れば祟るので、
畜生のように棄てたとか、赤紙一枚で戦場に送り、無残に人を殺させたり、
戦死や餓死させた兵士らを、神に祭って顕彰するとか、やりたい放題です。
それらはそのまま、生が弄ばれ、命が軽んじられる、現実の反映です。

人は死者の想いなど、気にもしなければ、考えようともしません。
安らかに眠ってほしい、成仏してほしい、天国で幸せになってほしい、
いつも見守ってほしいと、いつまでも、あなたを忘れませんなどなど、
形式的な供養や鎮魂、慰霊や追悼を、さかんに繰り返すのですが、
冥福を祈るのは、生きた人間を大事にするより、ずっと楽なことです。

だが、ほんとうにそれでいいのか?
しかし『銀河鉄道の夜』は、まさにそれを問うているのです。

本来、人が書き得ないとされる、「死後の世界」を設定してまで、
宮沢賢治が、死者の実存という問題に、正面から取り組んだのは、
はたして、死んだ後にあるとされる、天国や極楽などの浄福は、
現世での理不尽な、残酷な、悲惨な生と死を、贖えるものなのか・・・・
死者は、生者の偽善や不実に、どんな思いで堪えているのか・・・
だれもが怖れ、諦め、目をつむり、逃げてしまう、究極の問題を、
誤魔化しておく欺瞞に、堪えられなかったからではないでしょうか?

難破船の犠牲者の、姉と弟には、ふたりの家庭教師である
大学生の青年が、影のように付き添っていますが、
このなかで、もっとも人間味が薄いのは、この家庭教師です。
多少の学問があるからでしょうか、悟りすました、上から目線で、
言葉少なに生を愛惜する姉や、死んだことを悔しがる弟の気持が、
分かるようで分からぬまま、二人を慰めながら、傷つけています。

「・・・・・早くいって、おっかさんに、お目にかかりましょうね」
「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ」
「ええ、けれど、ごらんなさい。そら、どうです、あの立派な川、ね、
あすこはあの夏中、ツインクル、ツインクル、リトルスターをうたって
やすむとき、いつも窓からぼんやり、白くみえていたでしょう。
 あすこですよ。 ね、きれいでしょう。あんなに光っています」


青年は、どんな事態にも冷静に対応できる、楽観思考の人でしょう。
この世での、「いろいろのかなしみ」の原因や解決などは、どうでもよく、
神さまに召される喜びのために、他のすべてに盲目になっています。

流れ星は、天国へ向かう魂・・・
その多さに耐えられなくなり、思わず目を伏せました。


4年前の大震災の夜、被災地の夜空を見上げた、ある方の想いです。
為すすべもなく、家族や友人を、波に浚われた方も多かったでしょう。
その凄惨な夜に、きれいな流れ星を、うっとりみつめながら、
「たくさん死んだけれど、みんな天国へ行けて良かったね」などと、
うそぶけるものでしょうか。「思わず目を伏せ」るはずです。

沈没する船の上で、ふと、無理をして子どもたちを助けるよりは、
このまま死んだほうが、幸福ではないかなどと、前向きに考える青年に、
決定的に欠けているのが、人としての、正直な痛みの表出です。
彼も本当は、辛くてやりきれないのに、無理に笑顔でふるまうのは、
その関心が、天国への入国と、子どもたちの教導でしかないからです。

これに対して、カムパネルラ少年の、謎めいた苦悩と行為は、
あえて言挙げをしないままに、静かな対照をなしています。

カムパネルラは、ジョバンニの友達ですが、気弱なところがあり、
ジョバンニが虐められていても、心では寄り添いながら、
助けてやることができずに、胸を痛める、陰のある少年です。

サウザンクロスの駅で、「銀河鉄道」の乗客はほとんど降りて、
天上に向かいましたが、死者であるはずのカムパネルラは、
なぜかそうはしないで、「銀河鉄道」に乗ったままです。

そのカムパネルラが、突然、ジョバンニの傍をはなれて、
飛び込んでいったのは、ジョバンニが大きな恐怖を覚えた、
天の川に、どぼんと空いた「まっくらな孔」、「石炭袋」でした。

南十字座(サウザンクロス)の近くに、黒々とした影を広げる
「石炭袋」(コールサック)は、肉眼でも見える暗黒星雲です。
宮沢賢治の時代には、天文学的にも、その正体が分かっておらず、
どちらとも日本からは、見えない天体なのですが、宮沢賢治は、
この「石炭袋」を、「銀河鉄道」と、地上を含めた多次元宇宙とを結ぶ、
深遠で、不気味な、謎めいた通路として、象徴的に用いています。

「あ、あすこ、石炭袋だよ。そらの孔だよ」。
カムパネルラが少しそっちを裂けるようにしながら、
天の川のひととこを指しました。
ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。
天の川のひととこに、大きなまっくらな孔が、
どぼんとあいているのです。その底がどれほど深いか、
その奥になにがあるか、いくら眼をこすってのぞいても
なんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのでした。


二人を襲った、無明の虚空への、底知れない謎と恐怖とは、
人がそれと向き合い、見つめるのを、つねに避けてきたもの。
悩みも憂いもきれいに忘れて、まったり過したいと願いながら、
人としてそれでいいのかと、心に問わずにはいられないものです。

「石炭袋」とは、煌びやかな天上に去っていった、悲しい姉弟との、
別れ際の涙、隠せない葛藤、あふれる無念さ、限りない疑問の、
非情なる実体化であって、銀河の光芒さえ、無残に消してしまう
無限の闇が、しんしんと詰まった、天上とは反対の世界です。

「石炭袋」に飛び込んだカムパネルラは、どこに行ったのかという、
最大の謎には、さまざまな説があるようですが、わたしは、
カムパネルラは、惨苦に満ちた世界に、もういちど生まれるために、
ふたたび母親の胎内に、回帰していったのだと思います。

唐突なようですが、庶民に最も親しみのある、お地蔵様は、
サンスクリット語では、“クシティガルバ”とよばれ、
クシティは「大地」、ガルバは「子宮」「胎内」の、意味だそうです。

お地蔵様は、衆生に手を差し伸べながら、地獄が空っぽになるまで、
自身も成仏せず、西方浄土には行かないと、誓った菩薩ですが、
その大元にある、地獄にさえ赴いてゆく、大悲こそが、賢治のいう、
『世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない』
という、自我を超え、生ける者すべてを包み込む、真心だと思います。

「石炭袋」の方角に、ジョバンニにはどうしても見えなかった、
きれいな野原や、母親の姿が、カムパネルラにだけは見えたのは、
二人を本来の、生者と死者とに分かつ、決定的な瞬間であり、
「個人の幸福」と「世界全体の幸福」とを峻別する、シグナルでした。

ジョバンニが、このままずっと、大好きな友達といつまでも
楽しい旅をしたいと願うのは、単純な「個人の幸福」でしたが、
その大切な友達のジョバンニではなく、彼を学校いじめていた、
首謀者の少年を助けることで、命を失ったカムパネルラは、
人に条件をつけて、分け隔てるのを拒む、差別なき想いをもって、
「世界全体の幸福」への願いを、黙って実践しました。

ジョバンニにとっては、理解に苦しむ、つらい別れです。
もう彼には、心を通わせる友もなく、冷たい世の中に残されて、
貧しさやいじめに、たったひとりで、立ち向かうほかありません。
「強く生きてほしい」「ほんとうの幸せを見つけてほしい」と願う、
読者の安易な期待をよそに、ジョバンニがその後の人生を、
どんなふうに生きたのかは、だれにも分かりません。

もしかすると、一生かかってもついに、カムパネルラの死の意味や、
“ほんとうのさいわい”を、理解することができなかったのならば、
『銀河鉄道の夜』は、生者と死者の、絶望的な隔絶の物語になります。

地上ではいまも、どれだけ多くの老若男女が、どれほど理不尽な、
悲惨な、残酷な人生を送りながら、どんな思いで死んでゆくのか・・・
その人たちは、天国に到着さえすれば、苦しみから解放されるのか?

だとしたら、天国なる所では、どんな安らぎや喜びが、得られるのか?
地上が核の炎に包まれても、別に気にしないで、安穏と過せるのか?
神さまには、苦悶も悲嘆も憤怒も、憂愁も懊悩も、ないのでしょうか?、

私が、「わたし」として認識している自我とは、実体なき「空」です。
どんなに自分を探しても、自分の内面に、自分は存在していません。
自我とは、他とのあらゆる関わりを通してのみ、確認できるものだからです。
宇宙の万物は、支え支えられることで、成り立っているのであり、
自分一人で、好きなように存在しているものは、ひとつもありません。

そして、それを実感するのは、難しいことではないのです。
人が、喜怒哀楽を感じるのは、他と繋がっているからです。
世界に無関心な者は、本当の喜びも怒りも憂いも安らぎも、知りません。
その属する社会や歴史を離れて、存在できる人間はいないからです。

それを忘れて、自己とその拡張である、身近な愛する人達のために、
物心ともに充足を求めるのが、「個人の幸福」だと言えるでしょう。
そのためには、自分の命さえ、惜しみなく投げ出したり、
国家や会社のために、滅私奉公に励むのも、自我追求の発露です。

これに対して、地上のどこかに、ただひとりでも、飢えた人、
仕事を奪われた人、差別される人、戦争で死ぬ人がいるならば、
こみあげる涙と怒りに、身を震わせ、心臓を抉られるような
“copassion”によって行動を起こし、共闘の汗を流し続けることで、
はじめて思いを致すことができるのが、「世界全体の幸福」です。

「わたしこそが世界」という、みすぼらしい個人感覚と、
「世界こそがわたし」という、正しい自我認識の違いです。

人が世界と繋がるには、ちっぽけな自我の殻をどうしても
破らなければならず、それには葛藤や激痛が伴います。
そして、お釈迦さまの言葉にもあるとおり、人生や世界とは、
つねに、あらゆる「苦」に満ちあふれた、無常なものなのです。

もし甘美な、法悦の境地で、「宇宙と繋がる」と言っているなら、
その「宇宙」とは、そうあってほしいと願う、欲望の投影にすぎない
実体のない、脳内の、美しい虚構であると、言わなければなりません。

ジョバンニが、一緒に旅を続けたいと願った、カムパネルラもまた、
ジョバンニ自身が、こうありたいと憧れる 理想の投影に過ぎず、
彼はカムパネルラ自身の、痛切な孤独や覚悟を、理解していません。

「僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」
「あんな大きな暗の中だってこわくない」などと、物騒なことを、
軽々しく叫ぶジョバンニは、子どもらしい、無鉄砲な勇ましさで、
みずからの境遇と悩みに、いつのまにか自惚れています。

銀河の旅を続ける、ふたりの間には少しずつ、
乗り越えられない、深淵が広がってゆき、別れは必然でした。

いつの時代でも、宇宙との交感や、神との合一、
大自然との調和を、魅力的に語る向きがあるものです。
しかし私はそんなものよりも、中国や韓国の人々と、
生傷を癒しながら、理解しあうことのほうが、なにより大切ですし、
そんなことはできない、したくもないというのであれば、
では、そんなに偏狭で利己的な、神や宇宙が、一体どこにあるのか?
私も、ジョバンニたちのように、まじめに尋ねてみたいです。

「そんな神さま、うその神さまだい」
「あなたの神さま、うその神さまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたの神さまってどんな神さまですか」
 青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、
 ほんとうのたった一人の神さまです」
「ほんとうの神さまは、もちろんたった一人です」
「ああそんなんでなしに、たったひとりの
 ほんとうのほんとうの神さまです」


ジョバンニの、素直なもどかしさは、たぶん、
だれもがまじめに、心の奥底では感じて、傷ついている、
「個人の幸福」と「世界全体の幸福」との、乖離かもしれません。
「ほんとう」ではない、贋物にあふれた、この世のなかで。

ジョバンニは、同級生のカムパネルラには、もう会えませんが、
カムパネルラが、万有のなかに甦って、いつでも、どこにもいて、
誰彼と共に、汗と涙を流しているのを、いつか理解できるでしょうか?
そのときジョバンニも、今度こそ自分を破って、他者との共苦を選ぶなら、
ふたりは初めて、理想に向かって、ともに旅を続けることができるでしょう。

なぜなら、“ほんとうのさいわい”とは、
終わりなき旅の、辛苦に満ちた道程において、
永遠の問いとしてのみ、存在しうるものだからです。

宮沢賢治の残した、比類なき美しい童話は、
無償の愛や自己犠牲の称揚、彼岸への憧れではありません。

もしかすると、私たちもまた、カムパネルラのように、
天上には行かずに、暗黒の「石炭袋」に飛び込んで、
ふたたびこの世に生まれて、「ひとつぶの麦」となることを望んだ、
苦悩する魂ではなかったかと、思い出させてくれるのです。



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