Dark night of the soul Secret path to the Light

女詩人の『美しい国』 (松の匂い)
2014-12-08 Mon 18:03




公会堂を建てるために
山から人々は松を伐ってくる。
松やにの匂いが村中に流れて、
大きな丸太がごろりごろりところがされる
まっしろな霜に朝日がさして
まるで紫色の焔が燃えているような道芝の上に。
力ある人々の
たのもしい木の切口。
沢山の年輪がめまぐるしく渦巻いて
これは何十年と静かな静かな山の中で
たくわえられていた肥え松の匂い。
公会堂が出来たら、
よい事を話しあおう。
よい事を考えあおう。
羊歯や笹やつつじの枝を折りしだいて
山から伐りだされてくる松の木、
いたましい戦争のためではなくて
美しい国を創るために
曳きだされてくる松の木
あたらしい、いい匂いのする松の木。



これは、詩人・永瀬清子(1906~1995)の「松」という詩です。
『美しい国』(1948年)という、詩集のなかにあります。

永瀬清子の名を、いま日本文学史上に、見ることができるでしょうか。
女性詩人の先駆者ながら、没後20年、すでに忘れられてしまったようです。
私にしても、その名前を、たまたま知っていたのは、
母校の校歌の作詞者として、小耳に挟んだことがあるからですが、
岡山県出身の、高名な詩人という他は、なにひとつ知らず、
詩集を手にとり、読んでみたこともありませんでした。

少し調べて見たのですが、地元の図書館でさえ資料は少なく、
現代詩の書架ではなく、郷土資料や書庫に入っていて、詩集でさえ禁帯出です。
私の祖母とはほぼ同年齢で、明治、大正、昭和、平成に掛けて生き抜き、
時代が大き変わる神戸震災とオウム事件の年に、数日を前後して死去しています。
もしや女詩人と私は、岡山の街角で、それと知らずに、すれ違ったのでしょうか。

ともあれ、30年ぶりの再会のきっかけは、地元の新聞記事でした。
『永瀬清子さんの、天体描いた詩紹介』という、記事が目に留まり、
「天体を描いた詩」となると、居ても立ってもいられてなくなった訳です。

会場は、永瀬清子の生家がある、岡山県赤磐市松木(旧熊山町)。
岡山からさらに東に入った、吉井川沿いの小さな村落ですが、
11月も終わる雨もよいの日に、ようやく訪ねることができました。

JR山陽線の「くまやま」という、いまは無人となった駅を降りて、
むかしは商店も並んでいたであろう、人気のない通りを歩くと、
吉井川の土手に出て、目の前に、大きな熊山橋が見えました。
熊山町の歴史にも、永瀬清子の詩にも、欠かせない意味を持つ橋です。
周囲の山々は紅葉でしたが、霊山でもある熊山の威容は圧巻です。

この長い橋を渡りきったところに、小さな詩碑が立っていて、
清子の「熊山橋を渡る」という詩の一節が、石に刻まれていました。
冬の夜に越えた、「星まぶれの熊山橋」を詠んだものです。
この小さな訪問は、人生の新しい「出会い」ともなりました。
おなじ郷土と、天体への憧憬が、結んでくれた縁でしょうか。

地図を手に、清子の生家を訪ねながら、パンフレットを目にすると、
冒頭でご紹介した、「松」という詩の一部が載っていました。
生家近くの、松木公会堂(現公民館)を建てる時の様子を、詠んだものですが、
ひそかに驚いたのは、詩集のタイトルが、『美しい国』だったことです。

ある理由から、もうその名を、耳にするのも不愉快だという感覚は、
少しも不当ではありませんが、しかしここに、戦争の焦土から立ち上がり、
平和の国を目指した、新しい日本の理想の実現を、「美しい国」と呼び、
村の小さな公会堂を建てるために、伐り出されたばかりの、松の香に託して、
民主主義が育ってゆくようにと願いをこめた、ひとりの女性の魂が、
ひとつの詩があったことに、感慨を覚えずにはいられませんでした。

ふたたび駅に向かう足取りは、重かった。詩碑を写真に収め、
松木の集落を振り返ったあと、熊山橋を、今度は逆方向に渡りながら、
いまこの国は、かつてあなたが願った、その美しい名を騙る人物によって、
この川が逆流し、山脈を飲み込むような、天の星々が、極星の要を失って、
あちこちに彷徨い始めるような、とんでもないことが起こっているのですと、
女詩人の幻に向かって、語り掛けずにはいられませんでした。

しかし倉敷へ帰る電車のなかで、突然大きな疑問が、頭を打ちました。

清子はこの地の生まれでしたが、二歳のときに、父親の勤務先の金沢へ、
それから名古屋へと移り、結婚後は、夫とともに大阪や東京で暮らし、
終戦の年に、東京での罹災を避けて、岡山に疎開してきたのですが、
岡山もまた空襲に曝され、清子の家は辛うじて、焼失を免れました。
東京で罹災した永井荷風は、岡山に避難し、ふたたび焼け出されました。
当時6歳だった私の母は、夜明け前の空に、花火のようにきれいな
焼夷弾が降り注ぎ、岡山城の天守閣が、炎上する姿を見たのです。

東京では、新進の女流詩人として、当代一流の詩人たちとも交流を持ち、
宮沢賢治の追悼会に招かれて、賢治の弟が持参したトランクの中から、
「雨ニモマケズ」を記した手帳が発見された、その場にも立ち会った人です。

であればこそ、当然そこに・・・おそろしい疑問が、わきあがってくるのです。
この人も、もしかすると、いや、多分きっと、その詩をもって国策に、つまり
戦争に協力したのではないだろうか?そう考えるのは自然なことでした。


天寒く日は凍り
歳まさに暮れんとして
南京ここに陥落す。
あげよ我等の日章旗
人みな愁眉をひらくの時
わが戦勝を決定して
よろしく万歳を祝ふべし
よろしく万歳を叫ぶべし
(荻原朔太郎「南京陥落の日に」第二連)



1937年12月13日、日本軍は、中国の南京を占領しました。
戦勝祝賀集会が行われ、全国の街や村で、提灯行列が繰り出されました。
しかしその頃、南京では、多数の中国人が殺害されていたのです(南京虐殺)。

戦争の拡大にともない、国内では、戦時体制の強化が急がれました。
1938年には、国家総動員法が成立。国を挙げての総力戦には、
さらに国民の精神まで統制すべく、「国民精神総動員運動」によって、
日常生活までが、相互監視のもとに置かれましたが、不思議にも日本人は、
これに素直に従って、違反する者がいれば、「非国民、国賊」と罵りました。

文学者らも動員され、「ペンによる奉公」と称して、次々に大陸に赴き、
火野葦平による『麦と兵隊』などの、戦争文学も発表されるなか、
体制に批判的な言論は、徹底的に弾圧され、同人誌や個人誌に至るまで、
検閲され、発禁処分が相次ぎました。太平洋戦争開始の翌年には、
国策の宣伝と普及のための、「日本文学報国会」が結成されましたが、
やはり不思議にも、一度は執筆禁止の措置を受けた左翼も含めて
多くの文学者が、当たり前のように、これに参加しているのです。

そして皮肉にも、日本では、まだまだ俳句や短歌の陰にあった詩は、
国策による、愛国詩や戦争詩の普及によって、大衆化していきました。
詩などそれまでは、男性であっても、家族や身を省みぬ道楽者や、
無頼漢のする仕事だと、一般には見做されていたのです。

清子が寄稿していた、女性の文芸誌『輝ク』も、主催者の長谷川時雨が
積極的に協力の姿勢を見せていましたが、日本文学報国会が編集した、
戦争協力のアンソロジー、『辻詩集』(1943年)のなかには、
「夫妻」と題する清子の詩も、収められていました。


日本の妻はなげかない。
その時敵弾が彼をつらぬいたときいてさへ
なおその頬にはほほえみがのぼる。
よろこびいさんで彼が死に就いたことを、
彼女は疑ひ得ないから。
ああ、その幻がわらつてゐるのに
どうして彼女もほほえみ交さずにゐられやう。



言葉を失います。人の精神とは、ここまで脆く、
ここまで犯され、歪んでしまうものかと、思わずにはいられません。
これを、すでに過去のことだからと、小さく見ることは、私にはできません。

清子の詩はもともと、こんなおぞましい言葉の羅列とは、程遠いもので、
若さと瑞々しさのなかにも、宮沢賢治とは、また異なる方法で、
宇宙や歴史や生命や闇を、飲み込んでゆく、巨龍ような母性、
水に触れても感電するような、エネルギッシュな電磁気が魅力です。

しかし、そんなものは影も形も留めぬほど、無残な詩を書いた。
こんな詩に鼓舞された兵士たちは、その凄惨な死の瞬間にさえも、
自他に対して、心を偽らなければならない。「天皇陛下万歳」と。

だからこそ、さらに問いかけ、なおも追及しなければなりません。
永瀬清子は、詩人としての、自らの戦争協力、戦争責任に対して、
戦後には、いかなる態度を、言葉を持ったのかということをです。
それ如何では、「松」という詩も、ただのきれいごとになるからです。

戦中のジャーナリズムは、すすんで国策に協力し、
軍国主義の具と化し、「一億玉砕」を叫びたて、国民を煽りながら、
戦争に負けるや、手のひらを返して、民主主義の言論を展開しました。
日本人にとって終戦とは、なによりも窮乏や抑圧、戦火からの解放であって、
「天皇陛下」から「マッカーサー元帥」への衣替えは、なんでもないことでした。
戦争に協力した文学者のあり方に、厳しい眼が向けられるのは、当然です。

清子は、みずからも参加した、『辻詩集』について振り返り、

「最も正しいのは何も書かない事であったかもしれない。
 しかし私たちは詩人であり、何かを書くべく宿命づけられていた」
「明けると知れた夜なら迷うことはないが、
 自分は永久に抹殺されるかもしれなかった」


と述べていますが、これらの認識を、どのように受け止めればいいのか。
反省が甘いと突き放せるような、容易な話とは思われないのです。
そんな資格がないからではありません。後代の日本人には、資格どころか、
すすんで、「なぜあのとき、そうしたのだ」と、問い続ける義務があります。
「そういう時代だった」といった、決まり文句で済ませてはならないのです。

「何かを書くべく宿命づけられていた」とする言い訳が、私には理解できない。
宿命であればこそ、書いてはならぬものを書いではならなかった。
他に生きるすべがなかったとはいえ、戦争という癌細胞に犯された、
彼女の詩を救いうるのは、終戦と、棚ボタの民主主義ではないはずです。

しかし、「明けると知れた夜なら迷うことはないが・・・」という一文は、あまりにも重い。
これほどの危機感を、いま正しく感じている日本人が、どれだけいるでしょうか。
ここにあるのは、完全な絶望と恐怖なのです。

清子自身、非合法活動に身を投じた知人の荷物を、中味も知らぬまま預かっただけで、
治安維持法によって検挙され、5日間拘留されていた経験を持ちます。
国策に添った詩を書くにせよ、たった一語さえも、当局の気に入らなければ、
意向どおりに、書きなおさなければならないほど、完全な統制の下にあったのです。

打ち砕かれ、言葉を奪われた詩人。「明けない夜はない」と、安易に唱える現代人。
人間の暗部、自らの弱さに、正面から真剣に向き合っているのは、どちらでしょうか。

ただ分かりやすい謝罪や反省、自責の念の告白だけが、意味ある行いかと言えば、
必ずしもそうではない。それらは、保身や売名という場合もありうるのです。
ポーズさえしておけば許し許され、なんでも狂気の時代にせいにして済ます・・・
そうではなく肝心なのは、その後をどう生きぬき、どれだけ思想を深めたかでしょう。

ひとりの人間が、その人生において、人の力では如何ともしがたい、
時代の軛、戦争という巨悪に組み敷かれて、「抹殺」されかけたとき、
いかに無力で、無責任であったかを、苦渋のなかで自白する言葉は、
凡庸といえば凡庸ですが、人は何でも頑張りさえすれば、人の力でなんとかできる、
・・・そう考えるのは、人の驕りであると、告げられているように思えてなりません。

では早々に諦め、現実に屈して生きればいいのか。
それは違うのです。

都会での生活を棄て、熊山の片田舎で、農婦として再出発した
彼女の後半生が、そのことを物語っています。

永瀬清子が、「美しい国」に寄せた想いとは、どんなものだったのか・・・
どうかもう一度、「松」という詩を、読みかえしてみてください。

村の公会堂も、国会議事堂も、そこで行なわれる集会や議論も、
本来は、なんのためにあるのでしょうか?

(来週につづきます)

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