Dark night of the soul Secret path to the Light

種を蒔く人、根が張る良い土、そして時を待つ 
2014-11-05 Wed 01:11

10月が過ぎた。
むかしはこのころ、木枯らしが吹いて、空が限りなく澄んだものだ。

船が行き交う、海中の島だった小高い丘に、修道院に付属する学校があった。
11月の谷間に、霧の衣がたなびくと、神秘的な曙光が、十字架に射した。
この、世に隔絶した空間を、<聖杯城>と呼んで、6年間を過ごした。
冬の近づく、清らかな大気に身を浸すと、幸せだった日々を思い出す。

それから、30年の歳月が流れましたとさ。
そしていまは・・・変わり果てた街になろうとも・・・

秋祭りが終わると、黄金色に実った稲穂は、おおかた刈り取られる。
渋柿は立冬の寒気に吊して乾す。サツマイモを焚火に焼べて遊ぶ。
畑のコスモスが残照に揺れ、庭のツワブキに黄蝶がさまよい、
豪華な菊の懸崖が飾られ、垣根のサザンカが咲き始める。
照葉が山野や街路をいろどり、風に舞い散る土に、
来春のための、花の種を蒔く。球根を植える。

倉敷川


しばらく続いていた秋晴れが、にわかに時雨れて、
冷え冷えと生暖かい朝を迎えた。風が心地よい。
今夜は、171年ぶりの「後の十三夜」だとか。


おみこし 素隠居


ふと、思うことがある。
人ははじめ、どうやって言葉を獲得したのだろうか。

太陽や月や空、風や葉のそよぎや雲、花や蝶、鳥や獣、
火の舞や、水の衣や、土の香に、厳かに向き合い、親しく交わりながら、
耳を澄ませ、聞きおぼえて、まねをしながら、紡いでいったのだろうか。

だとしたら、太初の言葉は、素朴な歌なのかもしれない。
口笛や踊り、木を弾き、石を打つ楽器が、傍にあったのだろうか。
擬声語や擬態語は、その名残だろうか?

言葉とは、それを人が語りえぬとき、伝えきれぬときに、
ひっそりとしっかり、意味をもつようになるのかもしれぬ。

やがて、言葉を書き留める、「文字」が生まれる。
筆と墨、ペンとインクで書いた文字は、一度きりのものだ。
だから、文には人格が籠もり、文字には魂が宿った。

習字をする。墨が落ちる、筆が擦れる、半紙が破れる・・・
指の位置、手の柔らかさ、腕の運び、体温と息遣い、気分や心構え、
その日のお天気、温度や湿度まで、なにもかも一点に集中する。
石に刻まれた文字は、風雪に耐えて、数千年の命脈を保つ。

手紙とは、その人そのものだ。短い言葉に真実があった。
物足りなさは、不満よりも余韻となって、心に想いを巡らせた。
言外に広がる、時空をうめてゆくのが、想像力だった。
だがそれは、ふわふわと羽の生えた空想ではなく、
眼に見えないけれど、確かにある真実への、解像力のことだ。

夏目漱石が、英語教師をしていた時の逸話がある。
"I love you." の一文を、「我君ヲ愛ス」と訳した弟子に、
「月が綺麗ですね、と訳しなさい。それで伝わる」と教えたそうだ。

だがいま、指先でボードを打ちながら、表示される文字には、
そんなimaginationが入る余地もない。こんな作業をしながら、
ときどき、自分が存在していることさえ、疑わしくなってしまう。
なにかしら自他を欺き、偽っているのではないか、不安でならない。

知らないことがあれば、さっと「ググる」。たちまち表示される。
数分後には生半可な情報を、物知り顔で披瀝できるだろう。
重たい辞典を紐解くこともなく、図書館に通い、資料を探して、
文章を読みこなし、理解を深める必要もなければ、時間もない。
世界と人生は、スマホのサイズにまで縮んでしまった。


花 習作2



万巻の書物を読みこなして、知識の量はだれよりも豊富だが、
「一書の人」に、とうてい及ばぬ精神は、いくらでもいる。
金魚蜂に、大海の水を注ぎ込むことは、できないからだ。
「王様は裸だ」と、物怖じなく言える子供ほどにも、眼が開いていない。

物事を、ちっぽけな実存の甘えと、空っぽの経験に引き寄せて、
ごく狭い関心と目的のためだけに、探求し、把握しようとうする限り、
どれほど自分の頭を捻ったり、言葉を継ぎ接ぎしてみても、
俺は・・・私が・・・僕の・・・とのみ、自意識の開陳をくり返すだけだ。
そんな代物が、どれだけ出版され、たくさん読まれていることか。
ネットの文章などは、「どれもみなおなじ」だと言ってよい。

掛かりつけの医者に行く。こちらを診もせず、触れもせず、
PCのカルテを睨んだまま、先生は一言「はい、よろしい」。
なにがよろしいのか分からぬが、いつもこれで終わってしまう。
「先生、なぜいつもそうなんですか?」 医者は大あくびをする。
「ボクねえ、疲れてんの」。とろり濁った眼が不満げに答える。

朝日新聞の記者が尋ねる。「カムイ(アイヌ民族の神)とは・・・なんですか?」
アイヌの長老が答える。「この着物にカムイがいなかったら、
寒くてどうにもならん。ぬくもりが出てこないのさ」。

「カムイ」は説明されず、直接肌身に、実感として伝わる。
アイヌ民族は、固有の文字を持たないが、日本語で話しても、言葉が生きている。


女神 雅楽


さて・・・今年もどうにか無事に、自分の生まれた日を踏み越えた。
ということは毎年、知らされぬままに、自分が死すべきその日も、
踏んで歩いているわけだが、やがていつか、底が抜けるはずだ。
あと数年もすれば、生まれてから半世紀を迎える。

すでに、疑いもなく老年期に差し掛かり、墓場のほうが近づいた。
けれども、若いころは嫌悪し、恐怖し、とても正視できなかった
<老い>というものへの拒否感が、今では不思議なほどない。
むしろ<老い>こそ、人生最大の「宝」であると思っている。
尊敬すべき立派な先生方にも、恵まれたおかげであろう。

残された人生が、どれだけ長いか、短いかは分からない。
だが、心から<老い>の意識を締め出し、永遠に<若くあれ>とばかり、
人生に限界を設けず、決して諦めず、何事にもチャレンジするのは、
飽くなき消費文明の美徳であっても、自然の理には悖るのではないか。
経済成長の原動力ではあっても、人の精神の成熟にはふさわしくない。

老若男女は、落ち着きなく心を騒がせ、何かしら刺激を求めながら、
等身大で自然体の自己にも他者にも、充足できなくなってしまった。
つねに、自分ではない何かになれと迫られ、現実から逃げるように、
自己実現の、願望達成の、成功哲学の、アファメーションを唱え続ける。

なぜ枯れること、傾くこと、暮れること、沈むことを、見つめないのだろうか。
それらは神々しく、美しいことではないだろうか。

いまの社会には、年齢層としての「高齢者」は、それこそ大勢いて、
脳トレや筋トレに励んではいるが、威厳と叡智を備えた人生の先達、
道を究めた伝統の体現者、神仏のごとき祖霊としての、
「長老」や「老婆」という存在は、ほとんど姿を消してしまった。

<老い>というものが、衰、鈍、妄、障、醜、害、痴、呆、迷・・・などの、
あやまったイメージを纏わされ、遠ざられた結果、現代の高齢者たちから、
人であることの品位や、尊厳や、文化性までも、奪い取ってしまうことになった。
それだけではない、ある規格を外れれば、生存の権利まで脅かされる。

いつまでも元気なこと、ボケないこと、なるべく病気にならないこと、
耳が聞こえて、ふつうに話ができること、人に迷惑をかけないこと、
面倒を引き受ける体力があること、愚痴らないこと、物事に前向きなこと、
できれば小金を持っていること・・・そんなことが美徳とされ、強いられる。
高齢化社会とはいえ、現代人の意識の小児化、若年化は度し難い。

近代化や西欧化、核家族化、デジタル化が、悪いのではない。
もちろん昔でも、<老松の気品>を醸し出すような、優れた人物は、
やはり稀だったろう。だが物言わずとも、奥深い内面を持つ、
老人の存在は、身近に接するだけで、人生の道標たりえた。
そこには、肉体や頭脳の働きを超えた、魂の消えない炉があるからだ。

神仏とはなにか。なにを祭り、どう祈るのか、だれが教えてくれるのか。
人生とは辛く苦しく、重たい荷を負って、長い道のりを歩むものであると、
身をもって示してくれる、先達がいなければ、どちらが前かさえ分からない。
それが、いかに大きな喪失であることか、思い知る日が来るだろうか?

いずれにせよ、宝石を使いこなすのは、
その人の人生のボキャブラリーが深く、豊富で、重層的になったときなのです。
なぜならば、宝石とは、地球の何十億年という歴史を現す、
とてつもなく大きな、存在感を放つものなのですから。
それに負けないだけの、荘厳な魂と、ドラマチックな存在感、
そういうものを手にした人が、身につけてこそ、
本来の美しさを、発揮できるものなのです。(美輪明宏)



収穫 柿


「民主主義が終わった?終わったんなら、始めるしかないじゃん」
などとうそぶく、学生たちのおしゃれなデモが、話題を集めたらしい。
中高年のインテリまでもが、自分たちの不甲斐なさをボヤきながら、
彼らに賛辞を送っているのだから、驚き呆れてしまう。

民主主義とは、機械のようにリセットできるものではないのだぞ。

一度失われてしまったなら、長期間に及ぶ、多大の犠牲を払わずしては、
決して取り返しのつかないものだ。その犠牲とは、いのちのことだ。

壊れれば捨てて取り替え、行き詰まれば、都合よくやりなおしができ、
見聞きしたくないものは消し、始めるや、思い通りに事が運ばなければ、
すぐに苛立ち厭きてしまうような、おもちゃ遊びではありません。

若気の至りは誰にでもある。若さと元気は欠落を覆い隠す。
だが、きみたちの笑顔も凍りついてしまう日が、いつか来るだろう。
ほんとうに「始める」のは、その時からだ。できるかな?

深刻な、悲壮な、苦渋に満ちた顔つきで、ひとりひとりが取り組め。
わが身に火を放って、戦争に反対した貧しい男性に、敬意を払え。
きみたちの前に、血路を開いて、斃れいった先人たちを、思い出せ。
山ほどの失敗と挫折、ほんの少しの成功を、積み重ねながら、
われわれの屍を踏み越えて、膿まず弛まず歩め。


つわぶき ヒャクニチソウ


物事には、死に物狂いで体当たりしても、1ナノも動かない時がある。
そこに、人の意思や努力や思惑を超えた、力が作用しているからだ。
時を待たずに、結果を急げば、それまでの労苦も水の泡となる。

「なにごとにも時があり、天が下の出来事には、すべて定められた時がある」
(旧約聖書『伝道の書』より)


「時のしるし」は、かならず示される。
それに気づくには、なすべきことを為しながら、じっと耐えることだ。


私たちが、待たなければならないわけは、
種のなかにある生命の至聖所に、私たちの手は届かないからです。
生命の至聖所の扉が、中から開かれるのを、
私たちは待つ以外、ないのではありませんか。

歴史にも、私たちの届かない、至聖所があると私は信じます。
だから歴史のプロセスも、待つことの連続です。

待つことが約束してくれるのは、開かれるのを見る驚きです。
真っ赤な花が咲くのを願っていたのに、黄色い花が咲いたからと、
失望するのではなく、それゆえに、よりいっそう驚くことが、
待つ人生であり、歴史であるように思います。

待つということは、「伝道の書」の言うごとく、
「時を待つ」、ということでしょう。
時を見きわめてから、畑を耕し、種を蒔き、草を除き、
水をやること、それがすなわち、待つことでしょう。

ともあれ、90年にわたる歳月の間、
どんなにか身を焦がす思いで、父上と母上は待たれたことでしょう。
私たちが、いま待ち焦がれているのは、民族統一ですが、
私たちはどのような姿勢で、それを待つべきでしょうか。
神に祈る以外に、道はないのです。

(鄭敬謨訳『夢が訪れる夜明け 文益煥獄中書簡集』より)



祈りとは、自己を厳しく見つめ、省みる、神との対話である。
まじないとは、己の願望のために神の力を利用する、人の傲慢である。
魔法の言葉、まじないの思考で、状況を好転させることはできない。

大切なのは、息長く待つ堅忍、時を見る注意力だ。
そう、「蒔く」という文字には、「草」の下に、「時」が隠れてある通り。


2銀杏


文益煥(ムン・イクファン)牧師は、長く獄中にありながらも、
韓国の民主化運動、統一運動を支えた、精神的指導者だったが、
釈放の翌年に、祖国の統一を見ることもなく、76歳で死去した。

生涯を通して、平和と護憲を一筋に貫いた、土井たか子氏は、
社民党が見る影もなく凋落し、集団的自衛権容認が閣議決定され、
憲法9条が骨抜きにされるなか、ファシズムと軍靴の不気味な足音を、
その死の床で聞きながら、84歳で、人知れず世を去った。

医師として患者に寄り添いながら、水俣病の解明と救済に尽くし、
公害を生み出した国と企業、社会的差別と闘った原田正純氏は、
その重たい教訓が生かされず、引き起こされた東電原発の核汚染にも、
鋭い批判を加えながら、事故の翌年、77歳で惜しまれつつ逝った。  

「草も木も、みんな泣きよる」

これらの人々の意識に、最期に去来した想いは、何だったろうか?
夢は砕かれ、努力は水泡に帰した。人々は忘れ、罪過を繰り返す。
目の前には、待ち望んだ世界とは真逆の、地獄絵図が現出している・・・
夜は明けない。彼らは敗北したのか。死ねばそこで終わりなのか。
あの人が、いま生きていてくれたら・・・と、思うことはある。だが・・・


種を蒔く人が、種蒔きに出掛けていった。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、
そこは土が浅いので、すぐに芽を出した。
しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種は、茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。
ところが、ほかの種は、良い土に落ちて、実を結び、
あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
(新約聖書『マタイ福音書』13章)



東アジアの平和をつくるひとりが、中国との戦争を拒否するひとりが、
日韓・日朝の友好、南北統一、民族の和解、基地のない沖縄や、
核や原発のない世界、暴力や差別や奴隷のない社会を築こうと、
果敢に行動し、声を挙げるひとりひとりが、心を尽くし、精神を尽くし、
想いを尽くし、力を尽くして、あらゆる場所に、心をこめて蒔いた種は、
いまどこに落ちて、どんな芽を出し、伸びてゆこうとしているのだろうか?

わたしは、蒔かれた種がしっかりと根を張る、「良い土」だろうか? 


一粒の麦は、もし地に落ちて死ななければ、 それは一粒のままだ。
しかしもし死ねば、豊かな実を結ぶ (新約聖書『ヨハネ 福音書』 12章)



夕日


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