Dark night of the soul Secret path to the Light

生きることは被曝すること。その希望とは?
2014-10-05 Sun 23:34

9月28日、地元で、京都大学原子炉実験所の小出裕章先生と、
『希望の牧場ふくしま』の牧場主、吉沢正巳氏の講演会がありました。

2011.3.11から、3年半が過ぎました。
原発事故は忘れ去られ、被災者が棄民される、そんななかで、
小出先生も吉沢氏も、多忙を省みず、駆けつけて下さるのです。

小出先生の講演は、2年ほど前に、いちど聴いたことがありますが、
『希望の牧場』の吉沢さんには、どうしても間近にお会いして、
この目と耳をもって、その想いを受け止めたいと思いました。
いま「希望」とは、なにかということを。

原発事故によって高濃度に核汚染され、人が住めなくなった
浪江町の牧場にあえて残り、300頭の牛たちを守りぬく、
吉沢氏の『希望の牧場』については、ご存知の方も多いでしょう。
しかし私は、この壮絶なプロジェクトに対して、失礼ながら、
賛同もできなければ、反対もできないままでいました。

それはなぜか。二つの理由があります。
ひとつは再三お話してきた、私の一貫した立場なのですが、
原発事故により出現した、法律に定められた「放射線管理区域」よりも、
はるかに汚染の度合いが高い地域には、理由の如何を問わず、
大人も子どもも、絶対に留まるべきではないと考えるからです。

高濃度汚染地は、福島県だけではありません。
宮城県南部・北部、茨城県北部・南部、栃木県・群馬県の北半分、
千葉県北部、埼玉県・東京都の一部、新潟県や岩手県の一部などの、
広大な地域にまたがっています。そこに、胎児から乳飲み子、
子どもたち、若者たちを含めた大勢の人々が、日々被曝しつつ、
復興を期待しながら住み続け、日常生活を送ることが、
国の犯罪的な安全PRに、都合よく利用されてしまうからです。

もうひとつは、私自身が、『希望の牧場』の設立主旨のなかに、
どうしても、理解できない部分を感じていたからです。
それは次のようなものです。講演会場で配られた、
『希望の牧場ふくしま』の小冊子から引用します。

「今ここに生き残った牛たちは、福島原発事故の生きた証人である。
 その被曝実態の調査・研究を通して、今後の放射能災害の予防に役立てられる、
 貴重な科学的データを集積することができるだろう」


なんということでしょうか。
「福島原発事故の生きた証人」というのは、その通りです。
けれども「貴重な科学的データ」とは、どういうことなのか!
「放射能災害」を、他の自然災害も対する防災や研究と、
同じように考えるべきではありません。そもそも・・・
これほど膨大な、自然界にはない人工放射性物質による
生存環境の汚染自体、人間には為すすべも無い敗北だからです。
「今後の放射能災害」など、あってはならないことなのです。

『希望の牧場』のことを知って、寄せられる感想のなかにも、
悪気はないけれど、どう見ても、考えの足りないものがあります。

「放射能のなかで暮らしても、とっても元気そうですね」
「原発事故によって期せずして、被曝の実験場ができました」
「子どもたちへの被曝管理にも、役に立つといいと思います」  
「人間の身体の頑丈さ、自然の浄化作用を信じます」


このような、事の深刻さを理解せず、なんの覚悟もないままにする、
ポジティブな反応には、やりきれない想いがします。

だからこそ私は、吉沢氏ご自身のお言葉で、
なぜあえて、そんな生き方をされるのかを、聞きたかった。
私自身の、最大級の真摯な問いかけです。

吉沢さんと小出先生のお話を、振り返ってみましょう。
(主に、私のメモ書きを中心に纏めました)

『希望の牧場ふくしま』。
そこは浪江町。福島第一原発から、14キロの近距離にあり、
牧場の森の向こうには、原発施設の排気塔などが見えます。
もとは「エム牧場」とよばれる、和牛の繁殖飼育牧場でした。

2011年3月11日の午後。東日本を巨大地震が襲います。
そのとき吉沢さんは、南相馬市のホームセンターで、買い物をしていました。
津波の報を聞いて、急いで牧場に引き返した道は、
そのあとで数か所が、津波にのまれてしまったといいます。

牧場のライフラインは断たれ、停電でテレビも見られず、
カーナビで情報を得るほかはありませんでした。
夜になると原発上空を飛ぶ、ヘリの点滅灯が見えました。
「第一がおかしい」。
その日のうちに、福島第一原発から3-5キロ圏内に、
避難指示が出されましたが、正確な情報はありませんでした。

翌日の早朝、国や県、東電から、何一つ情報を提供されなかった
浪江町の町長は、テレビを見て決断し、全町に避難を呼びかけました。
しかし町民たちが急いで向かった、「津島」という場所は、
あろうことか風下に当たり、そこに大量の放射能が流れてきたのです。

牧場には、福島県警の通信部隊が来て、ヘリからの映像を中継するため、
場所の提供を申し出ましたが、その午後には、原発1号機が水素爆発。
中継どころかすぐに撤退命令がきて、隊員は引き上げる他ありません。
「とうとう来るべきものが来た。おしまいだ。国は情報を隠している。
 牧場にいないほうがいい」。
そう言い残して、去って行ったそうです。

牛たちのために、牧場を離れないと決意した吉沢さんは、
線量が普段の1000倍も上がった牧場で、発電機を回しながら、
牛たちに水を飲ませ、エサを与え、世話を続けました。
しかし、手塩にかけた牛たちも、被曝ゆえに、出荷先から断られてしまいます。

14日。原発3号機の爆発音に、すべての終わりが予感され、
16日には、自衛隊ヘリによる、空中からの放水がありました。
その危険な作業を、双眼鏡で見守った吉沢さんは、決意しました。
いまは逃げる時じゃない、たたかう時だ。

17日。「決死救命・団結」。牧場にそう書き残して、
吉沢さんはついに、軽ワゴン車で東京に向かいます。

東京電力本社。総務主任なる人が、応対に当たりました。
吉沢さんは、牛を全滅させた損害賠償裁判を起こすことを告げます。
逃げるな、ふざけるな、闘え。俺ならホースを持って建屋に行く。

そのとき主任は、泣いたといいます。そのあとも農水省に、
原子力安全保安院に、首相官邸にも乗り込みました。
枝野よ、「原発爆発事象」とはなにごとか!
車で寝泊りしながら、渾身の抗議活動が続きました。

そのころ牧場の牛たちは、エム牧場会長の村田氏によって、
このまま牛舎に繋いでいたら、餓死するだろうと判断され、
まだ牧草の生えていない放牧地に、解き放たれました。
わずかな水と草を探してでも、生きるようにとの願いからです。

しかし断腸の想いで、飼い主が去っていった牧場もありました。
食料も水もなく、繋がれたまま痩せ衰え、死んでゆくしかなかった、
牛たち、馬たち・・・。野生化して、人のいない街をさまよう家畜の姿。
殺処分や餓死で、どれほどの命が奪われていったでしょうか。
これだけをもってしても、原発事故はゆるしがたい犯罪です。

牛たちを、生かそう。

吉沢さんたちは三日に一度、避難先から、高線量の牧場に向かい、
給餌場にエサを置いたら帰るという、作業を繰り返しました。
4月、原発から半径20キロ圏内が、「警戒区域」に指定され、
無断で立ち入ると違法行為になりましたが、臆せずに続けます。
しかし5月12日、ついに国から、警戒区域内の家畜に対する
(所有者の同意を得た上での)「殺処分」の通達が出されました。

国の言うことは、絶対に聞かない。見棄てない。

それが吉沢さんたちの、ゆるがぬ決意でした。
理解ある議員や、ジャーナリストらを交えながら、
国から殺処分が下され、経済価値も失った被曝牛を、
「生かすこと」の意味について、議論しました。

そのひとつが、民主党の議員から出されたアイデアで、
残された牛たちを、原発事故の生き証人として、被曝の
科学的データを集めて、役立てるというものだったのです。
「なるほど、これならがんばれる!」

ここまでお話を聞いた時、その苦渋の想いに、堪らない気持でした。
本来、生きること、生かすことに、特別な意味や理由はいりません。
命そのものが、尊いものだからです。警戒区域のなかには、
吉沢さんの他にも、殺処分に抵抗して、愛護という観点でも、
飼育を続ける人々がいますが、本来それが真っ当なあり方でしょう。
病もうが傷つこうが、家族を棄てて逃げられないのと同じです。

にもかかわらず、殺処分が下った牛たちを守るのに、
「被曝実態の調査・研究」や「貴重な科学的データ」という
大義名分を押し立てるというのは、「ならば実験台になってやる」と、
残酷な現実の前に、身をもって立ちはだかるという、選択なのです。
そこまでさせるのか!感動話などではないのです。
薄っぺらな希望や、自己犠牲の、及ぶところではありません。

私の耳に、突き刺さった言葉があります。

「殺処分というのは、証拠の隠滅なんだ」

「この牛たちに、いったい何が起きるのか。
寿命が尽きるまで・・・見棄てずに飼ってゆくつもりです」


福島原発事故を、絶対に忘れさせないぞ。
私たちも含めて日本人に、その責任のある者たちに。
都合の悪いものを隠したり、消させたりはさせないぞ。
放射線に曝される牛たちの姿を、ありのままに見よ!

これが、『希望の牧場』なのです。
吉沢さんたちが、現在でも高線量の警戒区域に、
あえて残ることを選択されたのは、ご自身と牛たちの
これから残された生において、その身といのちをもって、
日本国家と東京電力が引き起こした、放射能汚染の実態が、
いかなるものかを、科学調査による、確たるデータによって証明し、
広く社会に知らしめ、不正を砕き、未来を拓こうという、お気持からでした。

それこそが「決死救命」の、いちばん深い意味でしょう。
鬼気迫る覚悟に胸が潰れて、涙がこみ上げてきました。

「科学データ」の為だけに、被曝の地に生かしておくのなら、
無謀な人体実験や、動物実験と、なんら変わりないでしょう。
広島・長崎のヒバクシャを、治療もせず、生きた標本として、
放射線の人体への影響を調査し続けた、米軍と同じことです。
そうではなく、吉沢さんの決意の根底には、人間の、いいえ、
すべてのいのちを蹂躙するものへの、抗議と挑戦とがありました。

ライフラインが一部復旧すると、インターネットを使って、
「希望の牧場」や、警戒区域内の情報、地元の畜産主の声などを
積極的に発信し、福島圏内や東京都内での、街頭演説も続けました。

牧場への立ち入りは、南相馬市から許可を得て可能になったあと、
それを引き継いだ町から、ネットで公にする情報は、町の許可が必要で、
マスコミの同行取材も制限するなどの、同意を求められましたが、
弁護士らの協力を得て、撤回することができました。
「希望の牧場」の様子は、ライブカメラで24時間中継されています。

現在、吉沢さんは牧場の牛たちの身体にあらわれた、
白斑ついて、農水省に真相究明を要求しています。
6月には、被曝牛たちをトラックにのせて東京を訪れ、抗議を行いました。
最後の一頭まで守ると約束した牛たちです。

吉沢さんのお隣には、原子力の専門家である、小出裕章先生がおられ、
温厚な表情のなかにも、苛烈な憤りをこめて訴えられました。
「放射能に関しては、安全・安心・大丈夫という言葉は、
絶対に使わないでほしい」と。すべて危険なのだと。


日々、高い放射線を浴びながら作業をされる、吉沢さんの前であっても、
はばかることなく、この期に及んでもまだ「大丈夫」だと思い込む、
一般日本人の、救いがたい特異性への、やりきれなさを語られました。

だからこそ、吉沢さんを英雄視たり、その試みを情緒的に賞賛したり、
「希望の牧場」の先行きを楽観するのは、間違いだと思うのです。
まして「被曝の実験場」などと肯定するのは、いのちへの冒瀆です。

小出先生は言われます。世界は、ひっくりかえってしまった。
いまでは、自分が厳重に管理する「放射線管理区域」に
逃げてきてくれたほうが、はるかに安全になってしまった。

オリンピックに反対する者は、非国民と呼ばれかねない。
しかし「こんな国なら、喜んで非国民になろうと思います」。

吉沢さんも言われます。12年の夏、大飯原発の再稼動を前に、
反原発運動が盛り上がった。しかしそこに石原都知事は、
尖閣問題をぶつけた。それから社会の空気が変わってしまい、
安倍政権の成立から、集団的自衛権の容認にまで至ってしまった。

おふたりとも、原発や放射能だけを、見ているのではありません。
原発や放射能とは、それを超えて、命の差別と否定を意味します。
だからこそ、核の大惨事を招いた社会構造と、その責任とを追及し、
私たちに何ができるかを、日本人に真摯に、問い続けておられます。
その結果、政府に最大の批判が向けられるのは、当然のことです。

後半には、聴衆との質疑応答がありました。
「なぜ日本人は、原発事故を忘れたり、他人事のように考えるのか?」

吉沢さんは答えられました。
「それは実際に体験していないからだ」と。
これからまた、原発は再稼動されるでしょう。
そしてまた、2回も3回も大事故が起きて、
日本が滅亡の寸前になったときに、ようやく気がつくだろうと。

吉沢さんご自身、原発事故の前年、宮崎県で口蹄疫が流行し、
多くの牛達が殺処分にされたとき、同じ牛飼いとして、
大変だなと思いながらも、やはり「他人事だった」といいます。
しかし次の瞬間、吉沢さんはすべてを失いました。

「明日はわが身だった」。

あまりにも重たい言葉です。

この言葉が示す現実の前には、行動なき祈りなど偽善であり、
自己欺瞞の無責任でしかありません。奇跡は起こりません。

原発に頼らない町づくりを目指した浪江町も、
日本一美しい農村だった飯舘村も、消えてしまいました。
しかし放射性物質は、半永久的に消えることはありません。
故郷を失った人々は、二度と帰還できず、絶望のあまり、
心身を病む人々、命を絶つ人々は、あとを絶ちません。
国は福島に金を落として、電力を吸い上げ、事故を起こしたあげく、
彼らを、使い道を失った厄介者として棄てました。
日本人には所詮、そんな智恵しかないのでしょうか。

「浪江ではもう米は作れない。でもたとえば、
バイオ燃料の原料となる、植物を育てることはできるかもしれない。
そのために現在は無人の里山や、田畑の保全管理に、
牛の放牧を利用する。やがてバイオ燃料の製造が始まれば、
搾り粕は牛の餌になる。汚染された地域でも閉じた循環を作ることで、
約20年といわれる、牛の寿命を全うさせることはできる」

「『希望の牧場』もまた、広大な放牧場の除染は可能か、
畜産を志す若い人たちは戻ってくるかなど、問題は山積。 
答えは、多分『否』です」。

(どちらも、『希望の牧場ふくしま』小冊子より)


吉沢さんは、厳しい現実をよく理解されているのです。
安易な復興の掛け声や、放射能との共存や、食べて応援や、
被曝に負けない身体作りなどと、断じて一緒にすべきではない。
私たちにも、相当の覚悟が求められています。

今後もし万一にも、なんらかの理由によって、
「希望の牧場」プロジェクトが、断念されることがあったとしても、
私はそれを、吉沢さんの敗北であるとも、希望が潰えたとも思いません。

なぜなら希望とは、浅薄な人間のいう、願望実現や目標達成とは、
まったく次元を異にする、勝ち負けを超えた人間的価値だからです。
絶望の暗闇の中で、たったひとりでも、理不尽と不正に抗うことで、
「地の塩、世の光」となってゆく、人の生き様と尊厳だからです。

あの日からすでに3年半。この国はいま、戦争をしたがっています。
社会の激変のなかで、新天地に避難・移住する人、あえて留まる人、
決めかねている人、すでに忘れて無関心な人、百人百様それぞれでしょう。
遠く離れた西日本に住む私には、それ以上のことは言えません。
しかし日本人の全員が、あの事故によって被曝していますし、
これからの生涯も、程度の差こそあれ、被曝し続けるのです。

生きることは、被曝すること。ならばこそ、
100年後、300年後の子孫に、恥じない生き方をしたいです。

なお、現在「希望の牧場」では、生き残った被曝牛たちのための、
「牧草ロール」と、その運送費の支援を呼びかけています。
会場で配られたチラシの、一部を引用いたします。

・・・北関東、東北地方全体に多く存在する、「汚染ワラ」「風評ワラ」「不要ワラ」と呼ばれる、処分に困っている飼料の受け入れを強く望んでいます。実際、現実的な処分方法についてワラの所有者も行政も困りはて、また焼却処分という方法については、放射性物質の更なる飛散を心配した反対運動が、各地で起きているという現実を受け止めたうえで、「ひとつの方法」として警戒区域内に残っている牛に、それらのワラを与えるというカタチでの処理が可能になれば、焼却処分による飛散を心配する人々の不安をとり除き、所有農家においても保管場所の有効活用、私たちを含め自力で飼育を続けている、被災した畜産農家全体への救済につながると考えます。つきましては「ワラ・飼料」等の保有農家の皆様、それらの繋がりのある方々に対して、協力・拡散をお願い致します。

お心当たりのある方は、ぜひご協力をお願いいたします。
ぜひネットで、「希望の牧場」を検索してください。

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