Dark night of the soul Secret path to the Light

言葉の『冠』
2014-05-21 Wed 00:17

ヨーロッパ人は(イスラエル人も含めて)、キリストの生涯に、『愛』という名を冠しました。この場合、『愛』という言葉は、ですから、ひとつの本質的な生と死との上に置かれた冠なのです。『言葉』を用いるとは、それほど真実なものであり、しかも人間の経験と思考とを越えているのです。『善』とはなんですか。誰も知りません。しかし何人(なんぴと)も、ソクラテスの生と死とに善という名を、冠のように置かなければならないのです。それに勝手な名をつけることはできません。(森有正『遙かなノートル・ダム』「ある夏の日の感想」より)

肉体を養い、生かすものは、食物と水分と呼吸です。
では魂は、なんによって生かされ、養われるのでしょうか?
それは、『言葉』です。現代人を襲い、蝕む、魂の飢餓とはまさに、
まことの言葉、いのちの言葉への、飢えと渇きではないでしょうか。

なるほど、私たちの周りには、いろんな言葉があふれています。
ところが・・・人がそれらを、貪るようにに味わいながら、満足感と引きかえに、
知らぬ間に毒され、傷つき、病み衰えてゆくのは、なぜでしょうか?

言葉にはそれぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを充たすものは、その条件に対応する経験である。ただ現実には、この条件を最小限度にも充たしていない言葉の使用が横行しているのである。経験とは、ある点から見れば、ものと自己との間に起こる障害意識と、抵抗の歴史である。そこから出てこない言葉は安易であり、またある意味で分かりやすい」(「霧の朝」より)

人の言葉が貧しく、薄っぺらで、虚しく、空疎で、無意味なとき、
それはその人の、語彙や表現力、文章力の問題では、まったくありません。
虚しい言葉とは、そこに何らかの文字と音声と、意味があって、
読めば元気が出たり、激しく同意したり、すっきり納得できるものであったとしても、
生きた人格と、苦渋の経験が宿らない、まやかしのキャッチコピーのことです。

人間の食べ物はすでに、その種の遺伝子、土壌や肥料から、人為的に操作され、
加工や流通、調理の過程では、化学薬品や人工甘味料に塗れて、偽装も横行するのに、
空腹さえ満たせるなら、品質に気遣うこともなく、安く手に入るなら選ぶこともせず、
見た目には美味く、食べても美味しく、有害と分かっていても、欲しくなるのが常です。
おなじように、薄っぺらな言葉もお手軽で、分かりやすく、心地のよいものです。

「地球に優しい・・・(人に、お年寄りに、お母さんに)」「女性が輝く社会」
「福島の子どもたちに、笑顔が戻った!」「感動をありがとう」「勇気をもらいました」
「決してあきらめない」「明けない夜はない」「がんばろう、ニッポン」「子どもは私たちの未来」

「人は口からプラスのことも、マイナスのことも言う。
だから<吐>という字は、「口」と、「+」と、「-」で出来ている。
人がマイナスのことを言わなくなると、「-」が消えて、<叶>という字になるんだ」


パキスタンの少女活動家、マララ・ユスフザイは、自伝で次にように述べます。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト 夢を旅した少年』という本を貰い、おもしろくて、
繰り返し読んだけれど、彼女の結論は、決して安直な楽観ではありません。

「人がなにかを手に入れたいと思ったら、宇宙全体が示し合わせて、その手伝いをしてくれる」
というくだりがあった。著者のパウロ・コエーリョは、タリバンに出会ったことがないんだと思う。
パキスタンの役立たずの政治家とも、縁がないんだろう。
(マララ・ユスフザイ著『わたしはマララ』より)


思念すれば、イメージすれば、宇宙の力によって願望が実現するとか、
世の不幸には目を閉ざし、弱者を見棄てながら、笑顔こそが世界を救うとか、
短い人生を、無意味な功利に振り回される、日本の大人たちは、
ただ教育を受ける権利を訴えただけで、タリバーンに銃撃された、
一少女の真摯な問いかけを、やはり一笑に付すのでしょうか?

森有正の文章に戻ります。
では、「(言葉は)人間の経験と思考とを越えている」といいながら、
「本当の言葉となる」条件として、「経験」が不可欠であるというのは、
どういう意味なのでしょうか?
それは、言葉とは、『冠』のようなものだからなのです。

森有正が暮らした街の、自宅の裏手にある、古いロマネスク教会。
「四角い茶色の石を積んだだけの」小さな建物の、街の中心にある
ゴシック聖堂にもまさる、四角い塔について、次のように描かれています。

殊に小さい教会の塔はすばらしいのです。見るたびにその美しさに驚いています。日に焼けて茶色にくすんだ石を積み上げた塔は、・・・・・簡素な趣と、律儀な慎ましさをもって、青空のなかに立っています。もう何も考えないで塔を、ぼくは見ています。それは、それを造った人にとっては、長い模索と思考の末、それらのすべての経験の上に、冠のように現れたものなのです。(「ある夏の日の感想」より)

教会の塔がイメージできなければ、夕映えに浮かぶ五重塔でもいいと思いますが、
このように、人の苦しんだ「経験」の積み重ねの上に、「冠」のようにあらわれるもの。
それが、「言葉」であるということ。
しかしそれは、なんという深みと重さでしょうか。

愛とはなにか?善とは?希望や信仰、自由や平和とは? 
それらをいくら考えて見ても、だれにも分かりません。
言葉そのものから出発することは、できないからです。
言葉に命が宿るのは、それを生きた人格が存在するからです。

キリストの生涯が、「愛」であり、ソクラテスの行為が、「善」であるならば、
釈尊や孔子、ムハンマドらにも、それぞれに相応しい『冠』があるはずです。
ひとりひとりの生涯にも、行為にも、おのずからある言葉が、冠せられるはずです。

しかし、どうでしょうか? わたしたち「戦後日本人」のあり方は、
なんぴとも、それ以外の名を与えることは出来ないという意味でも、
「平和」という冠を戴くに、ふさわしいものだったのでしょうか?

そのことを少し、考えてゆきたいと思います。

(次回につづきます)

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NGC 2683: Edge-On Spiral Galaxy
Image Credit: Subaru Telescope (NAOJ), Hubble Space Telescope; Image Assembly, Processing, & Copyright: Robert Gendler



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