Dark night of the soul Secret path to the Light

『美しや年暮れきりし夜の空』
2014-12-31 Wed 02:14

星までが恥じて、姿を隠すのか・・・

波高い明くる年を、暗示するかのような、年の瀬の荒れた空。

周到な準備が整い、いよいよ戦争前夜なのか?

生きているうちに、戦争が見物できるのか?



だれが、空を見たというのか?
だれが、雲ひとつない
紺碧の空を見たというのか?

きみが見たのは黒雲。
それを空だと思って、
一生を過ごしたのだ。

きみが見たのは、
屋根をふいた、鉄の大甕。
それを空だと思って
一生を過ごしたのだ。


申東曄(シン・トンヨプ)「だれが空を見たというのか」より


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美しや年暮れきりし夜の空
小林一茶


戻ろう。

私たちの、崇高な理想の国に。






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別窓 | candles
はじめてのクリスマス・・・マリアとヨセフの物語
2014-12-25 Thu 12:07

真夜中に、東の空に現れる、ひときわ明るい星は、
太陽系最大の惑星・木星。クリスマスの季節に、
「ベツレヘムの星」のような輝きで、冬の夜空を暖めます。

日の脚が南の遠のき、心細いほど低く、短くなってゆき、
太陽が天の真底に、いちばん近づく冬至。
北極圏では、太陽の昇らぬ、昼と夜が続きます。
この闇の支配する夜に、太陽は死んで、新たに復活します。

月にもおなじく、 死と再生のプロセスがあります。
老いたる月が、その姿を消して、ふたたび若く甦る、
神秘的な三日間の、まんなかの日が、「新月(朔)」です。

今年は、この古来より神聖な天体のサイクルが、
12月22日のうちに重なる、 「朔旦冬至」と呼ばれる、
19年に1度の、めずらしい現象に遭遇しました。

クリスマス(Christmas)は、「キリストのミサ」という意味。
聖なる降誕祭として、世界中でお祝いされますが、
しかしこの日は、キリストの、実際の誕生日ではありません。

もともと、太陽のよみがえりを祝った、ローマ時代の異教の、
冬至のお祭りに由来するものであり、ツリーのモミの木も、
冬でも葉を枯らさない、生命力の象徴である
北欧の樹木信仰に、その起源をもちます。
そしてキリストが、死後3日目に甦ったという信仰も、
月の死と復活になぞらえて、解釈されました。





聖書に記された、天使による受胎告知、マリアの処女懐胎、
婚約者ヨセフの苦悩、東方の博士たちを導く不思議な星。
故郷への旅の途中、ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス、
天使と羊飼いたちの祝福、「救い主」を殺そうとする王の軍勢、
エジプトに逃れる聖家族といった、おなじみのクリスマス物語です。

しかしキリスト教の伝統信仰や、教義の枠組みを取り外して、
クリスマスの出来事の意味を、説き明かしてゆくと、そこには、
マリアとヨセフという若い夫婦、そして生まれてくるイエスという、
紀元前のユダヤ社会に生きた、貧しい家族の姿があります。
当時の結婚年齢からいえば、二人はまだ10代だったようです。

マリアの処女懐胎は、キリスト教の、信仰箇条のひとつですが、
現実的に見れば、イエスはまぎれもなく、私生児であったはずです。
おそらく母親のマリアが、征服者でもあるローマ兵から暴行されて、
妊娠した子供ではなかったかという見方は、昔からありました。

この当時の社会では、女性は、男性の所有物・財であって、
純潔や貞操を犯された女は、生きる価値のないものと見做されました。
たとえ、無理やり強姦されても、並べて「姦通」として断罪され、
「傷物」となった体を、強姦男に引き取ってもらい、結婚できなければ、
ユダヤの律法では、「石打ち」による処刑が、待っていました。

「石打ち」とは、現代でも一部地域で行なわれる、公的な処刑方法です。
下半身を生き埋めにして、大勢の人々が周囲から、こぶし大から頭ほどある石を
一定間隔で投げながら、すぐに死なせず、時間をかけて殺してゆく刑罰ですが、
実際に死亡するまでは、3日間くらい掛かるとのことです。(ウィキベディア等参照)

他にも、「名誉殺人」という制裁があります。これは、たとえ強姦されても、
貞操を失うことで、家名を汚した女性を、親族の男性が殺害する習慣です。
夫に逆らった、結婚を拒絶した、恋人と結婚したなども、正当な理由になります。
殺害方法は家族会議で決定され、火あぶりや絞殺、自殺の強要などがあり、
母親も責めを受けて、殺される場合もありますが、一方の父親ら、男たちは、
不名誉な女など、殺されて当然だと胸を張り、警察も逮捕どころか、賞賛します。

あるいは、殺害までには至らなくとも、女性の耳や鼻を削ぎ落としたり、
顔に酸を浴びせるなどの虐待も、主にイスラム圏では、平然と行われています。
女子教育の必要性を訴えた、パキスタンのマララ・ユスフザイは、
過激派勢力に銃撃されましたが、もし強度の酸を浴びせられていたら、
皮膚は焼け爛れ、眼球は潰れて飛び出し、どんな顔になっていたでしょうか?

これらの習慣は、国連や人権団体から非難にも拘わらず、改まる気配はありません。
「女性の人権」などというものは、「欧米の価値観」に過ぎないからです。

現代では突出して、イスラムの特異性が、問題にされがちですが、
しかし、女性の人格が否定されるのは、洋の東西や宗教を問わず、
程度の差はあれ、父権制が守り続けてきた、伝統的な価値観です。
女の役割とは、家事用の妻、子産み用の母、性処理用の娼婦・慰安婦です。
夫の家系存続のために、できるだけ多くの男児を生むことが、第一の務めです。
歴史を通して、女性とは愛情ではなく使役の対象、家族よりも家畜の扱いでした。

日本でも、皇位後継者の男児を、産めなかったというだけの理由で、
心の病に追い込まれた妃を、週刊誌がなおも罵倒し続け、その娘まで誹謗して、
その夫の地位さえ剥奪しようとするのも、これと同種類にある思考です。

旧日本軍の慰安婦にされた、朝鮮の女性は、地獄の戦場から生き延びて、
帰国する船の上から、光復した祖国を目の前にして、海に身を投げました。
儒教倫理の厳しい祖国では、兵たちに犯され、汚された女の身上などは、
家族でさえも汚物のように忌み嫌い、生きてゆく場所などないからです。


教会倉敷
クリスマス礼拝の夜。


キリストの生涯を描いた、『ナザレのイエス』という映画には、
妊娠したマリアと縁を切ろうとした、婚約者のヨセフが、
夢のなかで、お腹の大きいマリアが男たちに取り囲まれて、
四方八方から大小の石つぶてを、容赦なく浴びせられる様を、
まざまざと見せつけられて、うなされる場面がありました。

ヨセフの立場ならば、婚約中に、他人の子供を妊娠したような女などは、
すぐにも法に引き渡し、石で打ち殺すのが、共同体の正しい規範です。
ヨセフ自身も、そうした価値観を、疑いもなく身につけていたはずですし、
マリアとは親が決めた結婚であり、特別な愛情があるわけでもありません。
周囲は、もちろんマリアを、「汚れた姦淫の女」として、蔑んでいたので、
ヨセフの一族も、あんな女は殺してしまえと、迫ったはずです。

にもかかわらず、この若者はあろうことか、
マリアとその子を、掟どおり殺すべきか、迎え入れるべきか、
ユダヤ共同体の規範か、それとも、マリアとその子の命かという、
だれも経験したことのない、良心の葛藤を抱いてしまうのです。

結局ヨセフが選んだのは、不幸なマリアと、父親も知れないイエスでした。
それは、なんとかなるさという、前向きで楽天的なお気楽思考ではなく、
降りかかるすべての差別と困難を、すすんで引き受ける、命懸けの覚悟でした。


ノエル
カトリック教会の「降誕劇」模型


ヨセフは故郷の街に戻っても、一族はおろか、宿からも追い出され、
身重のマリアは、不潔な馬小屋での、出産を余儀なくされます。
そのあとの数年間は、エジプトに逃れて過ごしましたが、これは、
「救い主(新しい王)」の出現におびえる、ユダヤの王の迫害よりも、
彼ら一家の生存を脅かす差別から、避難を余儀なくされたからです。

帰国したのち一家は、ガリラヤ地方の、ナザレという街に引き篭もり、
ヨセフは賤業である「石切り」となり、イエスもその仕事を継ぎますが、
ここでも、イエスは「ヨセフの子」ではなく、「マリアの子」と呼ばれます。

人が、父親の姓や名前をつけて呼ばれるのは、「胎は借り物」だからで、
父権制の行われた古代社会では、母親は、本当の親とはみなされず、
ただ父親の精子を預かり、胎児を育てるための容器にすぎませんでした。
母親の名前をつけて呼ばれるのは、「おまえは姦淫の子」という意味でした。

しかし、ヨセフの決断は、歴史に奇跡をもたらしました。

貧しく若い夫婦に、しかも、最大の侮辱を受けた女性の身体に、
おのれ自身の存在を、胎児という姿で託された、神の深慮。
犯された身体を恥じることなく、神を信じて、わが子を産もうとする女性と。
共同体の規範よりも、弱き者たちの命を貴び、慈しみ、守り抜いた男性。
そして、ふたりがもたらした、世界で最初のクリスマス。

イエスは、もっとも貧しく、弱く、賤しむべき子供として、生まれました。
しかしそれこそ、世の悲惨に対する、真の希望と勝利でした。

純潔
ユリはマリアに捧げられた花。ヨセフとの縁を結んだとも言われる。


いのちの始まりには、しばしば女性への残忍な暴力が伴います。
にもかかわらず、一方的に責められ、虐げられるのは、女性と子供です。
これはおそらく、地上から人類が終焉するまで続けられる蛮行でしょう。

しかし、絶望のさなかにあってもなお、どんないのちをも慈しみ、敬い、
どんな子供たちも、神の贈り物であることに気づいて、現実に挑む男女はいるのです。

聖書では、大天使がマリアを訪ね、神の子の懐妊を告げたとか、
苦悩するヨセフの夢にも現れて、マリアを迎えるように命じたとか、
宗教的な意味合いでの解釈が、荘厳に施されていますが、
私はここに、人間本来の愛のあり方とは、虐げられた者たちへの、
痛みをともなう、compassion(共苦)であるほかはありえないという、
注意深く隠された、力強いメッセージを、心に留めたいと思います。


クリスマスツリー星団
An infrared Spitzer Space Telescope image of NGC 2264
Credit: SIRTF/NASA/ESA.

クリスマスツリー星団(いっかくじゅう座。約2400光年)
冬の天の川のなかで輝く、双眼鏡でも見える星団(NGC2264)です。







別窓 | faith & prayer
女詩人の『美しい国』 (松の匂い)
2014-12-08 Mon 18:03




公会堂を建てるために
山から人々は松を伐ってくる。
松やにの匂いが村中に流れて、
大きな丸太がごろりごろりところがされる
まっしろな霜に朝日がさして
まるで紫色の焔が燃えているような道芝の上に。
力ある人々の
たのもしい木の切口。
沢山の年輪がめまぐるしく渦巻いて
これは何十年と静かな静かな山の中で
たくわえられていた肥え松の匂い。
公会堂が出来たら、
よい事を話しあおう。
よい事を考えあおう。
羊歯や笹やつつじの枝を折りしだいて
山から伐りだされてくる松の木、
いたましい戦争のためではなくて
美しい国を創るために
曳きだされてくる松の木
あたらしい、いい匂いのする松の木。



これは、詩人・永瀬清子(1906~1995)の「松」という詩です。
『美しい国』(1948年)という、詩集のなかにあります。

永瀬清子の名を、いま日本文学史上に、見ることができるでしょうか。
女性詩人の先駆者ながら、没後20年、すでに忘れられてしまったようです。
私にしても、その名前を、たまたま知っていたのは、
母校の校歌の作詞者として、小耳に挟んだことがあるからですが、
岡山県出身の、高名な詩人という他は、なにひとつ知らず、
詩集を手にとり、読んでみたこともありませんでした。

少し調べて見たのですが、地元の図書館でさえ資料は少なく、
現代詩の書架ではなく、郷土資料や書庫に入っていて、詩集でさえ禁帯出です。
私の祖母とはほぼ同年齢で、明治、大正、昭和、平成に掛けて生き抜き、
時代が大き変わる神戸震災とオウム事件の年に、数日を前後して死去しています。
もしや女詩人と私は、岡山の街角で、それと知らずに、すれ違ったのでしょうか。

ともあれ、30年ぶりの再会のきっかけは、地元の新聞記事でした。
『永瀬清子さんの、天体描いた詩紹介』という、記事が目に留まり、
「天体を描いた詩」となると、居ても立ってもいられてなくなった訳です。

会場は、永瀬清子の生家がある、岡山県赤磐市松木(旧熊山町)。
岡山からさらに東に入った、吉井川沿いの小さな村落ですが、
11月も終わる雨もよいの日に、ようやく訪ねることができました。

JR山陽線の「くまやま」という、いまは無人となった駅を降りて、
むかしは商店も並んでいたであろう、人気のない通りを歩くと、
吉井川の土手に出て、目の前に、大きな熊山橋が見えました。
熊山町の歴史にも、永瀬清子の詩にも、欠かせない意味を持つ橋です。
周囲の山々は紅葉でしたが、霊山でもある熊山の威容は圧巻です。

この長い橋を渡りきったところに、小さな詩碑が立っていて、
清子の「熊山橋を渡る」という詩の一節が、石に刻まれていました。
冬の夜に越えた、「星まぶれの熊山橋」を詠んだものです。
この小さな訪問は、人生の新しい「出会い」ともなりました。
おなじ郷土と、天体への憧憬が、結んでくれた縁でしょうか。

地図を手に、清子の生家を訪ねながら、パンフレットを目にすると、
冒頭でご紹介した、「松」という詩の一部が載っていました。
生家近くの、松木公会堂(現公民館)を建てる時の様子を、詠んだものですが、
ひそかに驚いたのは、詩集のタイトルが、『美しい国』だったことです。

ある理由から、もうその名を、耳にするのも不愉快だという感覚は、
少しも不当ではありませんが、しかしここに、戦争の焦土から立ち上がり、
平和の国を目指した、新しい日本の理想の実現を、「美しい国」と呼び、
村の小さな公会堂を建てるために、伐り出されたばかりの、松の香に託して、
民主主義が育ってゆくようにと願いをこめた、ひとりの女性の魂が、
ひとつの詩があったことに、感慨を覚えずにはいられませんでした。

ふたたび駅に向かう足取りは、重かった。詩碑を写真に収め、
松木の集落を振り返ったあと、熊山橋を、今度は逆方向に渡りながら、
いまこの国は、かつてあなたが願った、その美しい名を騙る人物によって、
この川が逆流し、山脈を飲み込むような、天の星々が、極星の要を失って、
あちこちに彷徨い始めるような、とんでもないことが起こっているのですと、
女詩人の幻に向かって、語り掛けずにはいられませんでした。

しかし倉敷へ帰る電車のなかで、突然大きな疑問が、頭を打ちました。

清子はこの地の生まれでしたが、二歳のときに、父親の勤務先の金沢へ、
それから名古屋へと移り、結婚後は、夫とともに大阪や東京で暮らし、
終戦の年に、東京での罹災を避けて、岡山に疎開してきたのですが、
岡山もまた空襲に曝され、清子の家は辛うじて、焼失を免れました。
東京で罹災した永井荷風は、岡山に避難し、ふたたび焼け出されました。
当時6歳だった私の母は、夜明け前の空に、花火のようにきれいな
焼夷弾が降り注ぎ、岡山城の天守閣が、炎上する姿を見たのです。

東京では、新進の女流詩人として、当代一流の詩人たちとも交流を持ち、
宮沢賢治の追悼会に招かれて、賢治の弟が持参したトランクの中から、
「雨ニモマケズ」を記した手帳が発見された、その場にも立ち会った人です。

であればこそ、当然そこに・・・おそろしい疑問が、わきあがってくるのです。
この人も、もしかすると、いや、多分きっと、その詩をもって国策に、つまり
戦争に協力したのではないだろうか?そう考えるのは自然なことでした。


天寒く日は凍り
歳まさに暮れんとして
南京ここに陥落す。
あげよ我等の日章旗
人みな愁眉をひらくの時
わが戦勝を決定して
よろしく万歳を祝ふべし
よろしく万歳を叫ぶべし
(荻原朔太郎「南京陥落の日に」第二連)



1937年12月13日、日本軍は、中国の南京を占領しました。
戦勝祝賀集会が行われ、全国の街や村で、提灯行列が繰り出されました。
しかしその頃、南京では、多数の中国人が殺害されていたのです(南京虐殺)。

戦争の拡大にともない、国内では、戦時体制の強化が急がれました。
1938年には、国家総動員法が成立。国を挙げての総力戦には、
さらに国民の精神まで統制すべく、「国民精神総動員運動」によって、
日常生活までが、相互監視のもとに置かれましたが、不思議にも日本人は、
これに素直に従って、違反する者がいれば、「非国民、国賊」と罵りました。

文学者らも動員され、「ペンによる奉公」と称して、次々に大陸に赴き、
火野葦平による『麦と兵隊』などの、戦争文学も発表されるなか、
体制に批判的な言論は、徹底的に弾圧され、同人誌や個人誌に至るまで、
検閲され、発禁処分が相次ぎました。太平洋戦争開始の翌年には、
国策の宣伝と普及のための、「日本文学報国会」が結成されましたが、
やはり不思議にも、一度は執筆禁止の措置を受けた左翼も含めて
多くの文学者が、当たり前のように、これに参加しているのです。

そして皮肉にも、日本では、まだまだ俳句や短歌の陰にあった詩は、
国策による、愛国詩や戦争詩の普及によって、大衆化していきました。
詩などそれまでは、男性であっても、家族や身を省みぬ道楽者や、
無頼漢のする仕事だと、一般には見做されていたのです。

清子が寄稿していた、女性の文芸誌『輝ク』も、主催者の長谷川時雨が
積極的に協力の姿勢を見せていましたが、日本文学報国会が編集した、
戦争協力のアンソロジー、『辻詩集』(1943年)のなかには、
「夫妻」と題する清子の詩も、収められていました。


日本の妻はなげかない。
その時敵弾が彼をつらぬいたときいてさへ
なおその頬にはほほえみがのぼる。
よろこびいさんで彼が死に就いたことを、
彼女は疑ひ得ないから。
ああ、その幻がわらつてゐるのに
どうして彼女もほほえみ交さずにゐられやう。



言葉を失います。人の精神とは、ここまで脆く、
ここまで犯され、歪んでしまうものかと、思わずにはいられません。
これを、すでに過去のことだからと、小さく見ることは、私にはできません。

清子の詩はもともと、こんなおぞましい言葉の羅列とは、程遠いもので、
若さと瑞々しさのなかにも、宮沢賢治とは、また異なる方法で、
宇宙や歴史や生命や闇を、飲み込んでゆく、巨龍ような母性、
水に触れても感電するような、エネルギッシュな電磁気が魅力です。

しかし、そんなものは影も形も留めぬほど、無残な詩を書いた。
こんな詩に鼓舞された兵士たちは、その凄惨な死の瞬間にさえも、
自他に対して、心を偽らなければならない。「天皇陛下万歳」と。

だからこそ、さらに問いかけ、なおも追及しなければなりません。
永瀬清子は、詩人としての、自らの戦争協力、戦争責任に対して、
戦後には、いかなる態度を、言葉を持ったのかということをです。
それ如何では、「松」という詩も、ただのきれいごとになるからです。

戦中のジャーナリズムは、すすんで国策に協力し、
軍国主義の具と化し、「一億玉砕」を叫びたて、国民を煽りながら、
戦争に負けるや、手のひらを返して、民主主義の言論を展開しました。
日本人にとって終戦とは、なによりも窮乏や抑圧、戦火からの解放であって、
「天皇陛下」から「マッカーサー元帥」への衣替えは、なんでもないことでした。
戦争に協力した文学者のあり方に、厳しい眼が向けられるのは、当然です。

清子は、みずからも参加した、『辻詩集』について振り返り、

「最も正しいのは何も書かない事であったかもしれない。
 しかし私たちは詩人であり、何かを書くべく宿命づけられていた」
「明けると知れた夜なら迷うことはないが、
 自分は永久に抹殺されるかもしれなかった」


と述べていますが、これらの認識を、どのように受け止めればいいのか。
反省が甘いと突き放せるような、容易な話とは思われないのです。
そんな資格がないからではありません。後代の日本人には、資格どころか、
すすんで、「なぜあのとき、そうしたのだ」と、問い続ける義務があります。
「そういう時代だった」といった、決まり文句で済ませてはならないのです。

「何かを書くべく宿命づけられていた」とする言い訳が、私には理解できない。
宿命であればこそ、書いてはならぬものを書いではならなかった。
他に生きるすべがなかったとはいえ、戦争という癌細胞に犯された、
彼女の詩を救いうるのは、終戦と、棚ボタの民主主義ではないはずです。

しかし、「明けると知れた夜なら迷うことはないが・・・」という一文は、あまりにも重い。
これほどの危機感を、いま正しく感じている日本人が、どれだけいるでしょうか。
ここにあるのは、完全な絶望と恐怖なのです。

清子自身、非合法活動に身を投じた知人の荷物を、中味も知らぬまま預かっただけで、
治安維持法によって検挙され、5日間拘留されていた経験を持ちます。
国策に添った詩を書くにせよ、たった一語さえも、当局の気に入らなければ、
意向どおりに、書きなおさなければならないほど、完全な統制の下にあったのです。

打ち砕かれ、言葉を奪われた詩人。「明けない夜はない」と、安易に唱える現代人。
人間の暗部、自らの弱さに、正面から真剣に向き合っているのは、どちらでしょうか。

ただ分かりやすい謝罪や反省、自責の念の告白だけが、意味ある行いかと言えば、
必ずしもそうではない。それらは、保身や売名という場合もありうるのです。
ポーズさえしておけば許し許され、なんでも狂気の時代にせいにして済ます・・・
そうではなく肝心なのは、その後をどう生きぬき、どれだけ思想を深めたかでしょう。

ひとりの人間が、その人生において、人の力では如何ともしがたい、
時代の軛、戦争という巨悪に組み敷かれて、「抹殺」されかけたとき、
いかに無力で、無責任であったかを、苦渋のなかで自白する言葉は、
凡庸といえば凡庸ですが、人は何でも頑張りさえすれば、人の力でなんとかできる、
・・・そう考えるのは、人の驕りであると、告げられているように思えてなりません。

では早々に諦め、現実に屈して生きればいいのか。
それは違うのです。

都会での生活を棄て、熊山の片田舎で、農婦として再出発した
彼女の後半生が、そのことを物語っています。

永瀬清子が、「美しい国」に寄せた想いとは、どんなものだったのか・・・
どうかもう一度、「松」という詩を、読みかえしてみてください。

村の公会堂も、国会議事堂も、そこで行なわれる集会や議論も、
本来は、なんのためにあるのでしょうか?

(来週につづきます)

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