Dark night of the soul Secret path to the Light

神の仮面 自由の偶像 人の血
2015-11-25 Wed 01:59

スポンサーサイト

別窓 | 未分類
戦争法成立
2015-10-06 Tue 23:37

この記事はブロとものみ閲覧できます
ブロとも申請

別窓 | 未分類
沈黙する罪 
2013-02-12 Tue 01:30

いまに、はじまったことではない。だがこれ以上、
このようなふるまいが、この国で、ゆるされていいのだろうか?

こんなものを放置したまま、日本国は、
国際社会に、どんな顔向けができるというのだろうか?

それ以前に、これは人として、赦されないふるまいである。
日本人は、いつから人間であることを、自ら放棄したのか?

日本国首相や、東京都知事はいますぐ、これらの行為を非難する声明を発表し、
彼らが、憎悪の矛先を向けている隣人たちを、ひとり残らず、身を挺して守ると、
国の名誉にかけて、約束し、実行しなければならない。

日本国民は、どんなレイシズムも、憎悪犯罪も許さない。

彼らが名指しする隣人たちだけでなく、日本に在住する、すべての人種と民族に
どんな不安や恐怖も与えてはならず、どんな危害も加えられてはならない。
広く国際社会にも訴え、国内でも法律を、早急に整えるべきです。

安倍総理。あなたは、日の丸が冒瀆されているとは思いませんか?
日本国の品位を傷つけ、根幹をゆるがす、恥ずべき行為とは思えませんか?

彼らは、「ごく一部の、特殊な思想傾向を持つ人々」ではない。
「ごく一部の」という捉え方は、危険である。

ぜひ、動画を探して見ていただきたい。見て見ぬふりをする人々は多い。
「ごく一部の、特殊な」集団だから、関わらぬほうがいいと、
圧倒的な多数の人々が、不気味に思いながらも、無関心を装っている。
物騒で、こわそうな集団が通り過ぎれば、もう忘れている。
そうやって人は、「ごく一部」に加わり、「ごく一部」は膨らんでゆく。
沈黙によって、加担することになってしまうからだ。

イジメと同じことだ。傍観者こそが、共犯者となるのである。動画

「害虫駆除」「○○人をたたき出せ」「三韓征伐」「不逞○人追放」
「良い○○人も悪い○○人もどちらも殺せ」「○○人首吊れ毒飲め飛び降りろ」
「ゴキブリウジムシ○○人を叩き出せ!」「○○民族を皆殺しにしろ!」
「ガス室を作れ!○○人を叩き込め!」「こーろせ殺せ、○○人殺せ!」

あなたは日本人として、これらにも一理あると、頷けるだろうか。

8月6日、炎天下の広島でも、同じような一団を、目の当たりにしたことがある。
田舎街の書店にも、近隣国への失礼な暴論妄説は、山ほど売られている。
それらの内容は精々、日本国内の「身内」にしか通じない、言説だとしても、
無批判に受け入れ、目の色を変えてしまう人たちが、少なからずいるとしたら、
日本の孤立どころか、国家そのものの、カルト化さえ招きかねないだろう。

オスプレイに反対する沖縄の人々が、東京でデモをしたときの様子を、
『戦後史の正体』や『日本の国境問題』などの著書で知られる、
孫崎享氏は、ツイッターで次のように記している。

沖縄:昨日糸数慶子氏と対談
「オスプレーで沖縄41全市町村長上京し、訴え。後、銀座でデモ。
行進の両脇で、中国の操作されているとの、大量の罵声に驚愕」。
オスプレーが安全であるとか、安全保障上必要と反論するなら解る。
しかし、「中国のスパイ」的反論でしか、反論できず、
かつ、一定勢力もつは恐ろしい現象(1月30日)

反響・オスプレイ反対、沖縄の人々の銀座デモ・平山鉄太郎
「"中国に操作されているとの大量の罵声に驚愕”。これは本当に驚きました。
いわゆる右翼団体の構成員ではなくて、(見た目は)ふつうの"市民"が
日の丸振りながら「非国民死ね!」とか絶叫していて唖然としました。」
(1月30日)

軍事ジャーナリストの神浦元彰氏は、次のようにツイートしている。
「『中国軍と自衛隊の軍事衝突が起きる』と話して欲しいと
テレビ番組のスタッフから電話。今回は中国軍の未熟を指摘し、
「あえて危機を煽ることは出来ない」と断ると、
そのように話せる人を紹介して欲しいと聞かれた。
またか。どうしてテレビは戦争をさせたいのか。
明日は日中戦争が始まると放送なのか」(2月5日)

同じく神浦氏によれば・・・
「自衛隊と韓国軍が竹島で戦う、自衛隊と中国軍が尖閣で戦う。
 兵器の写真をいっぱい使いたい。そんな仮想の戦争企画をやりたいと、
 監修依頼が殺到中。どうして日本が、韓国や中国と最終手段の戦争をするのか。
 今までの韓国や中国との友好は何だったのか。
 日本人はいつからこんなにも戦争が好きになったのか。
 そろそろ気づくべきなのだが・・・」(2月23日)

すでに「ごく一部」ではなく、大多数の日本人の心は、知らずのうちに、
民族差別と排外主義に侵食されて、戦争へとまっしぐらに誘導されている。

中国を訪問した鳩山元首相は、尖閣諸島を「係争地」と表現したことで、
「国賊」であると非難され、「腹を切れ」「万死に価する」と罵られた。

男性であれ、女性であれ、普段は温厚で親切、礼儀正しい人が、
歴史や領土の問題になると、客観性そっちのけで、別人になり果てる。
仲のよい友達でさえ、怖がって黙り込み、話をしようとしない。
そして不安そうに言うのだ。「どっちがほんとうなのか分からない」。

若者達は、いまより無知と偏見が強かった戦前の、お年寄りさえもが、
人間の品位を失うまいとして、絶対に口にしなかったような、差別発言を、
ネット上であれ、道を歩きながらであれ、平然とおこなって恥じない。

原発問題では、メディアの嘘などすぐに見抜いて、得意がる人たちが、
竹島や尖閣の話になると、偏向の強い報道でも、まる呑みに信じてしまう。

子供たちを放射能から、命懸けで守ってきた、お父さん、お母さんたち。
お子さんたちの心を、レイシズムの汚染からも、守ることができますか?
命と未来を守れと訴える唇で、「○○人を殺せ」と叫ぶことができますか?

こんな国の首都に、オリンピック招致など、失礼にもほどがある。
(もとより、放射線被曝と直下型地震が懸念されるため、開催は不可能だが)

日本人はかつて、関東大震災の混乱のなかで、多数の朝鮮人・中国人を殺害した。
それを思い出させる出来事が、いまから13年前にあった。

2000年9月3日(関東大震災の発生は9月1日=防災の日)、 
石原東京都知事は、陸海空の自衛隊員を動員して、防災訓練に名を借りた
大規模な軍事演習を展開し、国民の軍事への関心と興奮を、一気に覚醒させた。

「いまの東京を見ますと、不法入国した多くの三国人、外国人が
 非常に凶悪犯罪をですね、繰り返している。・・・・・
 こういう状況を見ましても、大きな災害が起きた時には、
 大きな騒擾事件すらですね、想定される、そういう状況であります。
 ・・・・・そういう時に、みなさんの出動を願って、災害の救急だけではなしに、
 やはり治安の維持もひとつ、みなさんの大きな目的として、
 遂行していただきたいということを、期待しております」。
(2000年4月9日 陸上自衛隊練馬駐屯地での、石原氏の挨拶より)

「三国人」とは、朝鮮人、台湾人などの、旧植民地の人々を指したが、
わざわざそうした呼称を使って、犯罪や暴動を起こすと説きながら、
治安維持のために、軍隊で鎮圧してもらいたいと、期待しながら、
石原都知事は、関東大震災を心に刻む防災訓練に、その大演習を決行した。

なにを意味するか?国家の暴力意思である。 
憲法破壊への情念、日本国の右旋回、国民意識の変貌、
かつて蹂躙した東アジアへの、剥き出しの侮蔑と敵意である。

この国の「右傾化」は、いまにはじまったことではない。
その布石は、きちんと見える形で、着々と敷かれてきたはずだ。
そしていま、12月の衆院選での、自民と維新の得票率を合わせれば、
国民の半数が、改憲を掲げる「極右」を支持する、結果がもたらされた。

心ある人々はいま、深い痛恨と憂慮のなかで、
ドイツの牧師マルチン・ニーメラーの、警告詩を思い出す。


『最初にナチスが共産主義者たちを攻撃したとき』

最初にナチスが、共産主義者たちを、攻撃したとき
わたしは、声を挙げなかった。
共産主義者ではなかったから。

次にやつらが、社会主義者を、投獄したとき
わたしは、黙っていた。
社会主義者ではなかったから。

それからやつらが、労働組合員たちを、逮捕したときにも
わたしは、抗議しなかった。
労働組合員ではなかったから。

そしてやつらが、ユダヤ人を、捕えたときにも
わたしは、黙っていた。
ユダヤ人ではなかったから。

さらにやつらが、カトリック教徒を、捕えたときにも、
わたしは、抗議しなかった。
わたしは、プロテスタントだったから。

最後にやつらは、私を捕まえたが、
もはや抗議できるものは、だれもいなかった。



たとえば石原都知事が、女性を侮辱したとき・・・あるいは「三国人」を、シナを、
障害者を、同性愛者を差別したり、左翼を攻撃したとき、どうだったろうか?
自分に関係なければ、聞こえもしないし、じつは、同調してもいたはずだ。
たとえ標的が自分たちであっても・・・一緒に楽しみ、笑い飛ばしていた。

「女性が生殖能力を失っても、生きているってのは、無駄で罪です」。

そのとき大勢の女たちは、「いかにもこの男らしい」と、気にも留めず笑った。
ある女たちは怒り、訴えたが、相手にもされず、退けられた。
それでも、女たちは笑った。「ババアは死ね」と言われながら、笑っていた。
男らしく、頼もしいと、何事でもないように、同意しているかのように・・・
いまも美容院で、女性誌を読みながら、「石原総理大臣」に抵抗を感じない。

「アウシュヴィッツ」における不可解なものとは、死刑執行人やその助手や、 
 大量殺戮の技術的完全化だけではなく、神の隠遁だけでもなかった。
 それは、傍観し、目をそむけ、目を閉じ、犠牲者を孤独に見放し、
 大量殺戮へと引き渡した人間の、沈黙であった。
 (ユルゲン・モルトマン、1989年)


別窓 | 未分類 | コメント:9
夜の地球  電気の暗闇
2012-12-13 Thu 02:59

光害2
宇宙から見た夜の地球(衛星写真)


まばゆい夜は、天を退け、
光の闇は、星辰を、追い払います。

日の脚は、恥じ入るように遠ざかり、
天の底で、顔を伏せてしまいます。

富み栄える都の、苦しげな腕に、
眠りと、安らぎと、静けさはないけれど、
打ち棄てられた村、さびしい庭は、
星の子らの戯れる、暗やみに抱かれます。

ひとみは、夜の深さ。
幾千億の、微光の接触。
旅を終えた時間が、夜の耳になって
沈黙を、聞こえさせてくれます。

星塵の発光、瞬く流れ星は、
雲の入り江に、偽りの名を棄て去った
夜の、裸身のおののきなのです。 


ああ、もうこんな時間になってしまったけれど・・・
もういちど庭に降りて、冬木立を掠める流れ星を、拾って来ようかな。
ふたご座流星群、ご覧になられましたか?

Youtubeの貼り付け方が分からないのですが・・・
NASAの映像です。EARTH AT NIGHT

なんと、もったいないことよ!

どれだけ多くの、使いもしない電気が、
宇宙空間にまで、ただ漏れになってることか。
これは、とんでもない電力の浪費でもある。
ほんの少し工夫すれば、そんな無駄は防げるはずだが・・・
これで「電力不足」など、だれが信じるだろうか?

光害(こうがい、ひかりがい、Light Pollution)という。
天体観測への支障だけでなく、動植物の生育や生態系の混乱、
運転中の支障、防犯にも、明るすぎるため、かえって死角ができる。
なにより、人間の精神生活を著しく破壊し、不必要な光の侵害である。
夜に、安らかな暗がりを求めるのは、人間の生きる権利のひとつだ。

それにしても・・・
「宇宙から見た地球には、国境はありません」とも言われるが、 
・・・・・・眠らない地球の夜は、なにもかも、はっきり映し出す。

人工都市の虚栄。欲望のように、張り巡らされたハイウェイ・・・
ナイル川は光の蛇。アラブの油田が赤々と燃え、
光の洪水は、インドを圧して、ヒマラヤ山脈にまで押し寄せ、
漁火のゆらめく日本海には、光の島があらわれ、
オーストラリアでは、あちこちで、森林火災もあるようだ・・・

引き裂かれた半島の北半分は、闇に包まれているが、
世界中の嘲笑をよそに、いま、夜の懐にいだかれながら、
ゆり籠のように熱い星雲から、凍れる冬銀河までが、
肉眼のまま、くっきり眺められるだろう。
軌道投入に成功した「人工衛星」も、新しい天体の仲間入りか。

夜の光と闇とが、そのまま文明の質や、経済格差、社会の明暗、
心の豊かさ貧しさや、幸福の尺度を、あらわすわけではないとしても、
しかしいま、全世界をめぐる血流のような、電気の有り様ほど、
地球文明の本質を、如実にあらわしているものも、そうないだろう。

地上を征服した電気は、息するように、間断なく脈動している。
そこに、なにが蠢いてるのか・・・夜の地球、夜の日本列島こそ、
電気を支配する、巨大帝国の威容である。

「デンキ開ケテ、世見 暗夜となれり」(田中正造)
電気の光は、世の中を暗闇にした。

原発を廃絶したところで、新しいエネルギー源から作った電気で、
あいかわらず、地球の夜景は、輝きを増すだけなのだろうか?

これまで通りの、電気に生命を預ける生活を続けるのか?
だとしたら、「脱原発運動」とはいったい、なんなのだろう?
原発事故のあと、雨後のタケノコのように登場した自然エネルギーに、
未来を丸投げしておけば、もうそれでいいというのか・・・
「脱原発」とは、要するに原発をやめればいい、そういう話なのか?

先日、自然エネルギーに関する講演会&座談会に、出席してきたのだが、
私はこれまで、自然エネルギーの話には、ずっと距離を置いてきた。
「1000万人アクション」にも、頼まれたけれど、署名したことがない。
一体だれが、原発の代替になるのは、太陽や風力や水力であると決めたのか・・・
欧州ではそうかもしれないが、日本では事情が、まったく違うと思ったからだ。

私たちが段階的にではなく、「いますぐ廃炉」を求める理由は、日本が、
いま地震の活動期にあり、次の巨大地震で、もういちど原発事故が起これば、
この国は完全に壊滅する・・・にもかかわらず、活断層の真上で原子炉を稼動させるという、
狂気の沙汰をやってのけるような、とんでもない異常事態にあるからだ。

それならば、いついつまでに脱原発しますなどと、悠長な話をするのではなく、
広瀬隆氏が主張するように、代替には、天然ガスを利用したコンバインドサイクルや、
電気と熱を同時に生み出せる、コジェネのような発電方法のほうが、現実的ではないか・・・
自然エネルギーは、もっと中長期的な視野に立って、検討してゆけばいいと、
そんな風に思えてならなかったからだ。

なにより、これは危ない!と思ったのは、脱原発を望んでいる国民までもが、
よく知りもしない自然エネルギーを、無批判なまま、承認しているらしいことだ。
これは最も懸念される、民意の収奪にもつながる。いくら原発反対の立場でも、
「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名」の用紙を渡されて、
なにも知らず、考えないまま、賛成して、名前を書くわけにはいかないよ。
そういうわけで、気詰まりな想いをしながらも、ずっと慎重に構えてきた。

3.11。史上最大の原発事故に・・・私たちは、なにを学んだのだろう・・・ 

電気を生みだす巨大企業に、国民生活のすみずみまでが、支配されていたのだ。
わたしたちの、生殺与奪の権まで、握られていたといってよいだろう。

ならば今度は、その電気を、こちらにそっくり、奪い返そうではないか。

たかが電気ではない。エネルギーとは、生死の問題だ。
人類は火を熾し、使うことで文明を得た。むかしは薪や炭火を、
いまはそれが電気になっただけで、重要さはまったく変わらない。
「電気のありがたさ」に感じ入って、節電しておけば、済む問題ではない。

コンセントの向こうで、いま核分裂が起こり、被曝する作業員がいる。
そんなことも知らずに・・・湯水のごとく電力を浪費してきた・・・
その身動きも取れない、電力支配の社会構造を、まずよく知ろう。
過去のあやまちに訣別したいと願うなら、どうすればいいのだろう?

もうこれからは、原発を動かすような、電力会社の意のままに、
勝手に停電され、節電を強いられ、料金を吊り上げられ、大事故を起こされるのではなく、
自分が使う電気は、自分で選んで買う。あるいは自分で発電すること。
それが可能となるように、意識を変え、社会のしくみを作り変えてゆくこと。


毎日の消費生活は、投票するのと同じ意味を持つ。
大企業は人々の欠乏感を煽って、要りもしない商品を、大々的に宣伝し、
それがなければ、死んでしまうほどの欲望を起こさせ、着々と利潤をあげる。
わたしたちは、「1%」のカネモウケのために、心を操られ、モノを与えられ、
虚しい感動と刺激を繰り返し求める、愚昧な購買者として、生かされてるに過ぎないのだ。
それへの無自覚が、あってはならない原子力事故と、核汚染を引き起こしてしまった。

「脱原発運動」とは、早期の廃炉と同時に、無自覚だった自分との訣別、
電力利権社会への挑戦でもあると思っている。特に、自然エネルギーの分野では、
目覚めた個人や家族、地域共同体が、独自の実践をはじめている。
そのなかで、節電や省エネ、環境に配慮する様々な工夫が、行なわれている。

電力にせよ、食品にせよ、無意味な我慢や自己犠牲では、なにも解決できない。
自立した個人が、人生と生活のあらゆる事柄について、主体的な判断で、
責任ある選択をすることで、活発に機能する共同社会を目指すこと。

時間は掛かるかもしれないが、自然エネルギーに移行する過程を通して、
自治的な社会を実現できる可能性も、ありうるのではないかと思っている。
それが単なる、原発の廃絶から自然エネルギーへの移行だけではない、
「脱原発運動」の、最終的な目的ではないだろうか?

私たちの意識と生活が、それでもなお、変わらなければ、
太陽電池パネルが並べられ、風車が回ってさえいれば、それで安心ならば、
「原発安全神話」のあとに、「地球にやさしい神話」が生まれ、
「原子力ムラ」のあとに、「エコムラ」が出来上がるだけだろう。

本来なら欧州のように、自然エネルギーに移行することの意義や
その必要性、技術や経済性、危険性にいたるまで、国民のあいだで、
幅広い議論の積み重ねが必要だと思うけれど、そんな余裕もないまま・・・
あの日から1年9ヶ月、歴史的な衆議院選挙が、3日後に迫ってきた。

与えられた人生ではなく、自分自身が、人生の主人公になろう。
私にとって「脱原発」とは、真っ先に、そこから始まる。

未来を思い描こう。どんな国がいいだろうか?

・・・あの目のくらむ光に侵食された、日本列島が、
夜闇の底に、ほのかな影のように、沈んでゆく・・・
貧しくて、寒くて、おそろしい、明けない夜にではなく、
優しい灯のゆらぐ、安らぎに満ちた、星降る夜のなかに・・・

国を売ろうとする、極右ファシスト政権によって、
国民を、放射能や遺伝子組み換え実験場の、モルモットにされたり、
国土を、核のゴミ捨て場にされて、たまるものか!
子供や孫たちに、近隣国を憎ませる教育など、絶対にするものか!

放射能から、国民の生命と健康を、完璧に守りぬこう。
不都合な真実を包み隠さず、正しい情報を発信しよう。
犠牲の上に成り立つ、社会や家族や仕事のあり方を、賛美ではなく拒絶しよう。
人の暮らしは、本来「農」が中心だ。身土不二、医食同源なのだから。
そのお店の商品とサービス、この職人さんの技術への、感謝と信頼、
応援の気持が、いいものを生み出し、お金を回す、そんな経済がいい。
生まれた街や村に、誇りがもてる。けれども決して、心は内向きではない。
誰でも普通に、2ヶ国語くらい話せて、外国人の友人を持っている。
お国自慢が、戦争に繋がることもない。そんな国はどうだろう。

その国には、平和憲法のもとに、軍隊よりも訓練された、
屈強なの災害救助隊、人道支援隊、環境保全隊がいて、
世界各地で活躍する。日本は世界に、誓ったからだ。
二度と、軍隊は持たない。決して戦争はしないと。

わたしたちには、誇りを持って、それができる。

いまここで、わたしたちが、道を誤らなければ。
この国が、子供たちを、決して見棄てなければ。

脱原発・反TPP・反大増税・改憲阻止


衆議院選挙まで、あと3日。

別窓 | 未分類
血路
2012-12-03 Mon 23:30

まことの言葉、力ある言葉、いのちの言葉は、どこにあるのだろう。

憂国の怒号と扇動と虚言が、弱者への罵倒が、津々浦々で飛び交う。
託された御用のように、眉唾の愛と夢とを、飽きもせず語り続ける人々。
踏まれても、蹴られても、虚しい口約束を信じて棄てられ、破滅してゆく人々。
そうこうしている間にも、ふたたび大地が暴れ、海が押し寄せて、
またどこかの、ウラニウム湯沸かし器が、ぶっ壊れるだろう。

こんなときでも、まだにニコニコ笑うのか。
これからは、もっと素直に泣け。
死者たちのために、明日もないわが身のために、
奪われ、傷つけられている、すべての命のために、
泣いて、泣いて、涙で大地をうるおせ。

天をも動かすために、宇宙の果てまでとどく、大声で泣け。
あなたの涙で、川があふれ、みずうみが生まれるくらいに。
みずうみが、死の太陽をのみこむほど、巨きく深くなるまでに。
圧政が、エジプトの軍勢のように、溺れて滅びるように。

はや12月。昨日は、底冷えのする寒さだった。
陽が落ちてしばらくすると、東の空に、ひときわ明るい星が輝く。
ベツレヘムの星のように、威厳ある木星が、冬星座を引き連れて現れる。
風はますます冷たくても、心温まる、クリスマスの季節のはずなのに、
今年は、そうもいかない。嵐の岬に、追い詰められた気分だ。

ギシギシと不快な音を立てる、時代の歯車に、押し潰されそうだ。
正直になれよ。毎日、そう言い聞かせている。
自分がこんなことをしている原点は、いったいなんなのか・・・
もういちどふり返って、確認してみよう・・・そうすれば答えはわかる。

16日に迫った総選挙。

どんなことがあっても、極右勢力の台頭を阻止すること。
改憲を前面に掲げ、徴兵制や核武装まで本気で考えている
自民と維新とに、過半数を握らせては、この国はほんとうに破滅する。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。

1日、俳優の山本太郎氏が新党を立ち上げて、記者会見を開いた。
どうにもナイーブで不器用だ。政治家の言葉ではない。
しかしいちばん真っ当なのは、虚飾ない本音で語る、彼の話だと思う。

マスメディアがひた隠しにする、この国の危機を、白日の下に曝し、
自分自身の言葉で、ありのままに訴え、選挙の争点に据えて、
日本人の、さまよえる良心に、ぎりぎりの呼びかけをする。

①脱原発
②反TPP
③改憲阻止


日本国の独立と、国民の生命を死守する、絶対の防衛ライン。
どれひとつでも、欠けてはならない。

わたしたちが選ぶのは

民を見棄てて、国力を増強し、戦争も辞さない、極右と売国のファシズム。
属国になることで得られた権益のために、国土も民衆も省みない政治か。

それとも

民を活かし、豊かな国土を守り、東アジアに平和を築く、「99%」の民意。
高濃度汚染地域の子供たちを、一刻も早く安全な地へ避難させる政治か。

すこしも大袈裟ではない。
自民、民主、維新、未来、その他云々・・・党名などはどうでもいい。
この国の未来を、守る者と棄てる者との戦い、
国民が、生きるか死ぬかの、戦いである。

山本太郎の気取らない語りは、嘉田知事の「びわこ宣言」の曖昧さよりも、
ずっと誠実で、明確で、なにより切迫した危機の本質を突いている。
大人として、子供たちを守ろうとする責任感と、威厳が感じられる。
いったい政治家のなかに、彼ほど鋭い意識と行動力を持つ者が、何人いるのか?

無謀なことかもしれない。滑稽なピエロとして、葬られるかもしれない。
だがいま、山本氏の言葉を聴いて、心が揺さぶられない日本人ではダメだ。
山本氏がなぜ、たった一人からの闘いをはじめたのか。
国民ひとりひとりに、直接行動を促すメッセージだからだ。

嘉田由紀子滋賀県知事が立ち上げた、「日本未来の党」。
脱原発票の受け皿として、単純に歓迎するわけにもいかないでいる。
まだ具体的には何も決まっていないのに、イメージと話題ばかりが先行し、
いちはやく期待を集めてしまうことにも、納得がいかない。
嘉田氏のいう「未来の安心、国家の品格、地球倫理」とは、なにか?

「未来の党」は、「卒原発」に関する、独自の工程表を示したが、
ではそれ以外の、TPPや改憲については、どんな考えなのか?
そのあたりはひとまず置いておき、なにより脱原発の一点に絞ってでも、
社民、共産にも協力を求め、一致団結して、リベラル第3極どころではない、
第一党の座を奪い取るほどの勢いで、大攻勢を掛けないでどうするのだ。

もっとも困るのは、切実な思いのこめられた「脱原発票」を回収したあげく、
手の平を返したように、廃炉を引き伸ばし、結果的に原発を延命させることだ。
「脱原発ではなく、“卒原発”です」という、理屈も成り立つだろう。
未来の党は、「脱原発」と「卒原発」の違いを、有権者に説明すべきではないか?
有権者は、「卒原発」を認めるのか。そんなことは、もうどうでもいいのか。

「卒原発」を掲げようと、「脱原発票」の受け皿であることは、承知の上だろう。
ならば、これまであらゆる困難な中で、廃炉と放射能防衛に血路を開いてきた、
反原発運動の活動家・参加者らにも、意見を求めるべきではないか。
彼らの期待を収奪して、思い通りに利用するならば、信頼は地に堕ちるだろう。
廃炉だけでなく、有効な被曝対策についても、早急に具体策を示してほしい。

言うまでもないが、反原発運動とは、単純なエネルギー政策の転換を求めるものではなく、
いま世界中で勃発している、巨大資本によるあくなき人権蹂躙と、生活破壊に対する、
99%の民衆の抵抗運動なのである。脱原発に、政治が道をつけてくれたとしても、
何事も無かったように、安穏として日常に戻ると思ったていたら、大間違いだ。
核のゴミには100万年の管理責任が伴い、核の汚染で、国土の一部は死滅したのだ。

卒原発は粛々と進めるが、近隣国とは喧嘩を続け、
改憲にはまっしぐらでも、話にならない。
いまこの日本で、最も意識の高い有権者の支持を、一挙に失うことになるだろう。
「地球倫理」を説くなら、まず国際社会の道義をわきまえ、
歴史から逃げることなく、近隣国との友好関係を築くべきである。
そこら辺は曖昧にしておくのが、無難でもあり、得策であるには違いないが、
それを最後まで見極めてから、判断したいと思っている。

3年前、鳩山政権に託した国民の願いを、民主党は握りつぶしたが、
大震災と原発事故、近隣国との関係悪化による不況によって、
国民生活は、その時よりもさらに悪化して、明日も見えず、行き詰まっている。

「革命」とさえ呼ばれた政権交代で、国民が求めたのは、
従来の官僚依存を打破して、民意が反映される政治の実現だった。
小泉改革によって拡大した経済格差と、安全社会の崩壊に対する反旗でもあり、 
自民か民主かだの、二大政党だの、そんな話にすりかえてもらっては困る。

いまその革命は、国民に失望を残して、侮蔑のなかに葬られ、
弱者に寄り添い、冷たい現実を変えようとする努力など、無駄だと言わんばかりに、
この国はますます資本と、そしてふたたび軍靴に、蹂躙されようとしている。

これ以上日本人が、日の丸の裏に星条旗を貼って、勇ましく振り回しながら、
国を売り、国土を汚染し、国民を騙してきた「愛国者」の虚言に乗せられ、
自らの首を絞めながら、その顔に恥ずべき泥を塗る行為に走るのは、耐え難い思いだ。

もういちど、未完のままの国民の革命を、大きく前進させよう。
大増税と福祉の切捨て、いいかげんな景気対策では、なんの解決にも至らない
国民の99%を、死ぬまで病と貧困のなかに放置する、圧政と決別しよう。
今回の選挙は、すでに争点がはっきりしている。

脱原発、反TPP、改憲阻止

心ある国民は、たとえ大雪になっても、投票所に足を運ぶだろう。

党派を超えて、すべての立候補者の、良心に訴えます。

脱原発、反TPP、改憲阻止

命の重みをこめた、切実な一票で、わたしたちが血路を拓きます。

民を生かすために、その声を託されたあなたも、

死ぬ覚悟で、ファシズムの暴政から、日本を守りぬいてください。

別窓 | 未分類
NO NUKES! 歴史への責務、希望への問いかけ
2012-11-09 Fri 15:19

NO NUKES! 
日比谷公園の使用ができなくなろうと、原発反対の声はやまないぞ。
日本だけでない。世界各国の抗議運動と連帯しよう。

NO NUKES! 
原発に反対するとは、文字通り、核兵器に反対することだ。
廃絶に向けた、手段や過程は異なるとしても、
論理においても、道義の上でも、両者を区別したり、分断することはできない。
原発と核兵器の、どちらかはOKなど、ありえない話だ。

全世界のヒバクシャだけでなく、人類の悲願でもある、
核廃絶への道のりが、どれほど険しいものか・・・

先月になるが、軍縮や安全保障問題を扱う、国連総会の委員会で、
34カ国が、核兵器の非人道性を訴える、共同声明が発表された。
核兵器の影響は、広範囲にわたり、将来世代への脅威ともなり、
国際人道法上の問題になり得るという、至極当然の道理を訴えている。
「全ての国は核兵器を非合法化し、
核兵器のない世界に到達する努力を強めねばならない」。
核廃絶へ向けての、各国の積極的な取り組みを、いっそう促す内容だ。

日本はこれまで一貫して、「核兵器廃絶決議案」を提出してきた。
ところが今回は、この声明への参加を求められながらも、拒否したという。
「わが国の安全保障政策の考え方と、必ずしも合致しない内容が含まれていた」
(風間直樹・外務政務官、19日、参院行政監視委員会)というのが理由だそうな。

この矛盾が過ぎる態度には、国内でも批判は出ているのだが、
報道も含めて、余りに消極的というか、まあ一応は言っておきました、
書いておきました、無視するよりマシでしょ、といった程度のものだ。

「核廃絶を訴えながら、非合法化に同意できないでは、国際社会から信頼されない」
「唯一の被爆国である日本が、先頭に立つべき仕事ではないか」
「いつまで、アメリカにおもねて、主体的な判断ができないんだ」
「被爆者の願いを、踏みにじる行為だ」
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経験して、まだ目が覚めないのか?」

どれもその通り。けれども疑い深く、苛立たしい気持はおさまらない。
この国には、核廃絶の意志なんて、ほんとうは無いのではないか?
日本は、本音では、核兵器を保有したがっているのではないか?
将来的には、核武装だってありうるかもしれない・・・

どうだろう? いまでは、荒唐無稽とも言えないだろう。

非核三原則は、守られてきただろうか?
毎年8月6日の、広島市長の「平和宣言」は、いつでも
翌朝の読売新聞で、ボロクソにけなされているではないか。
平和憲法など、いまや憎悪の的となり、廃棄寸前ではないか。
核武装なんて騒いでいるのは、一部の右翼だけなのか? 
安倍が執念を燃やす憲法改正も、そういう流れのひとつだろう・・・

将来的な、核保有の可能性まで踏み込まないで、どうするんだ。
そんなことは、いまでも、口にしてもいけないことなのか?
どれほど疑っても、失礼ではないし、疑い過ぎることもない。
国民の声として、率直に、執拗に、問い続けるべきだと思う。

毎年8月、原爆忌を中心に、炎天下の広島平和公園で、
「さだ子と千羽づる」という絵本の朗読公演をしている、作家の山口泉さんは、
カタールの衛星テレビ局、アル・ジャジーラの取材を受けた時の様子を、
次のように記している。

・・・・・・弾き了えた私に、特派員は言いました。
その言葉を聴いたときの、体温が下がるような感覚を、私は生涯、忘れません。

「中東は、いずれ必ずアメリカからの核攻撃を受けるでしょう。
 しかし、ヒロシマ・ナガサキは、核攻撃を受けたそのあとでも、
 人間が故郷を復興できるという『希望』の象徴です。
 その『希望』を中東の人々に伝えるため、わたしたちは日本を訪れ、
 ヒロシマ・ナガサキを取材しているのです」。

この切実な“核戦争後の「希望」”の痛々しさと、私たち日本人とが、
ただちには通じ合えない、絶望的な理由とはなにか?
 (山口泉『原子野のバッハ 被曝地・東京の三三〇日』)


P8080136.jpg


言葉もない。一瞬、心が、唇が、凍りつくようだ。

山口氏が取材を受けたのは、2003年。イラク戦争の年だ。
その後、2009年にアメリカ大統領となったオバマ氏は、
「核兵器なき世界」の実現に向けた取り組みが評価されて、
ノーベル平和賞を受賞している。だが、ぬか喜びはゆるされない。
そんなことは絶対にさせまいとする、巨大な力は侮れない。
あらゆる口実で、「敵」を作り上げてまで、戦争をするのだから。

「中東は、いずれ必ずアメリカからの核攻撃を受けるでしょう」。

この世界に、起こりうる悲惨な未来から目を逸らさずに、
核による滅亡と、そこからの再生に希望をつないで生きている
そんな人々がいることを、日本人は、どう受け止めるのか?
アメリカの、忠実な「同盟国」の人間として・・・

さらに付け加えれば、多くの指摘があるように
日本を「唯一の被爆国」と呼ぶのは、いまでは間違っている。
イラク戦争でも使用された劣化ウラン弾は、核爆弾と同様の
被曝による放射線障害を、イラクの人々や、米軍兵士にさえ与えている。
イラクにも、戦争によるヒバクシャは大勢いるのだ。
それなのに、「唯一の被爆国」は、その戦争を支持した・・・

中東のテレビ局が、「希望の象徴」として訪れた、ヒロシマとナガサキ。
しかし、2011年3月11日のフクシマ事故と、それ後の日本の惨状は、
彼らの「希望」など、打ち砕いてしまったのではないだろうか?  

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という誓いは、
決して偽りではなかったが、ついに守られることはなかった。
日本はいまや、「唯一の被爆国」どころか、わが国土のみならず、
東アジアと北太平洋の、広大な空と海まで放射能で汚染した、
核の加害者になったのだ。この重大な罪責を、どう考えるのか?

「70年間は草木も生えない」と言われたヒロシマは、たしかに
緑豊かな国際都市として甦った。焼き払われた他の都市もおなじだ。
だがそれは、あるべき復興だったのか?真の希望の姿なのか?
アメリカの「核の傘」の下で、朝鮮戦争やベトナム戦争に乗じて、
復興への道を歩み、世界第2位の、経済大国になったことが・・・
どこかに欺瞞や、矛盾を抱えていることを、だれもが感じていたはずだ・・・

戦後日本に原発を導入した政治家、中曽根康弘が、広島の原爆雲を見て、
「このとき私は、次の時代が原子力の時代になると直感した」と回想しているのは象徴的だ
(朝日新聞、2011年7月17日「原発国家」)。
中曽根は広島の原爆雲の下に広がった地獄絵を想像するよりも、
日本が「原子力の時代」に乗り遅れてはならないと考えた。
この時点での「原子力」が原子力発電ではなく、原子爆弾を意味していたのは明らかだろう。
(高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』)


これが、「唯一の被爆国」「平和国家」「憲法9条」という
偽りの仮面に隠されてきた、戦後の日本国家の原点だと思う。
そうあってほしくはないが、そうだったのだ。

被爆国・日本には、戦後より一貫して、「核」への執着があった。
実際に保有しなくとも、願望と意思はあり、可能性は検討されてきた。
「自衛のための必要最小限度の範囲内にとどまる限り、
 核兵器の保有も憲法上、禁じられていない」というのが、政府の見解だ。
日本政府には、「核」に対する、絶対的な否定の意志は無い。
国民の反対は「原子力アレルギー」と呼ばれ、病気扱いされてきた。

核を保有するとは、恐るべき非人道的なふるまいである。
国家の安全保障を、核の破壊力に頼ろうとするエゴイズムがあるかぎり、
つねに世界は不安と緊張に曝され、未来は奪われたままなのだ。
そればかりではない。
国家でさえ「核」を管理できないような局面が、現れつつある。

日本は「核被爆を体験した国」として、イデオロギーに分断されることなく、
反戦・反核のリーダーシップを担うのが、歴史的な責務でなければならなかった。
アメリカに対して、核の非人道性と、原爆投下の加害責任を認めさせるべきなのだ。
しかしいま、欺瞞を溜めに溜めこんだ国は、国際社会からすっかり信頼を失ってしまった。

戦後67年を経てなお、周辺国との間に友好どころか、紛争の火種を撒く。
原子力事故を引き起こしたあげく、放射能汚染のなかに自国民を見棄てて、
子供たちの生命さえ、レベル7超といわれる核災害から守ろうともしない。
にもかかわらず、歴史を軽んじ、東アジアに深刻な緊張をもたらし、
原発まで維持しようとする極右の面々が、非難どころか、絶大な支持を集めている・・・

日本国憲法が「押し付け」かどうかなど、どうでもいいことだ。
それよりも、国民の大規模な反対を押し切って結んだ安保条約や
沖縄をはじめとした米軍基地こそ、正真正銘の押し付けではないか。
「日米同盟」強化のために、平和憲法を改悪しようとは、どういう了見なのだろう。

そんな国に核武装論が台頭するのも、不思議はないだろう。
彼らの主張たるや、いかにお粗末な打算や、怨念に過ぎない空論か・・・・
紛争や外交を有利に運ぶ手段や、「抑止力」としての、核の力に頼るなど、
「この世の正義とは暴力だ」という力の論理に、浅ましく屈しているだけだ。
やりきれない、ほんとうに恥ずかしい。それどころではないだろう。

国際社会の監視のなかで、核開発など簡単にはできないといっても、
核廃絶を訴える仮面の下で、核保有の「願望」を持つだけでも、
国の根幹を蔑する、国民と国際社会への、重大な背信ではないか。
「核の平和利用」を標榜する原子力産業が、国民には明らかにされていない
核政策や軍需産業と結びついていないとは、もうだれも考えないだろう。

アル・ジャジーラの訪れた広島では、今日、どんな風景が見られるか?
8月6日、広島の街には、核武装推進と排外主義を叫びながら、
日の丸を振りかざしてデモ行進する、右翼の罵声と怒号が響きわたっていた。
その様子を間近で見ながら、あまりの殺気に血の気が引いてしまった。
フクシマ事故後のヒロシマには、無残なる精神の瓦礫があった。
目を背けないでほしい。日本はもう、ここまで来たのだ。

政府の欺瞞や右派の攻撃をものともせず、
戦後日本の民衆が守り抜いてきた平和憲法と、反戦反核の理念を、
嘲笑するような平和ボケ、若い世代の軽佻な意識を侮ってはならない。
核兵器と原子力発電の問題性を、わざと切り離して考えるのも間違いだ。
なにを躊躇し、なにに遠慮して、真っ当な物言いができないのか?

「中東は、いずれ必ず、アメリカからの核攻撃を受けるでしょう」。

その核攻撃を、同盟国・日本は苦渋に満ちて、支持することになるのか。
そんな国のどこが、「核戦争後の希望」になりえようか!
逆に日本人こそ、この重い言葉に、真の希望を手探りすべきだろう。

諦めではなく、冷徹な現実認識。
絶望ではなく、抗暴の意思、峻厳な告発。
破滅すら予想される未来を見据えながら、暗闇に耐え抜く人間精神。
核の暴力に勝利できる、唯一のものが何かを教えられるだろう。

日本人にとって、反原発・反核の闘いの、歴史的な責務とはなにか?
真の希望はどこにあるのか?これは、日本だけの問題では、決してない。
アル・ジャジーラの言葉は、そのことを日本人に問うている。

被害者意識を拭って、私たちは、いまいちど省みるべきだ。  

ヒロシマ、ナガサキを体験したはずの日本人が、
なぜ、フクシマ事故という核の暴力を、ついに引き起こしたのか?

このままでは日本は、ふたたび、みたび、核の加害国になりかねないだろう・・・

「日本では、いずれかならず、第二の原発事故が起きるでしょう」
「日本は、いずれかならず、平和憲法を廃棄して、核武装するでしょう」


P8080129.jpg

別窓 | 未分類
| 星の海の守 |